いろいろな事件や事故で世間の注目を浴びる被害者の家族・遺族は、テレビで放映される画面の中では常に深刻な顔をしていなければならない。こういう暗黙の約束事がテレビ局にはあるらしいことを新聞で知った。
人間は喜怒哀楽の中で生きているが、この4つの感情にも適度な割合というものがあるだろう。とんでもない災難に遭って哀しみのどん底に突き落とされても、時が経てば偶には微笑んだり笑ったりすることもある。心の中で絶望感が支配的だとしても、それにすべててを占有される訳ではない。たとえそうなったとしてもそれはある程度の期間だけのものである。気持ちを切り替えて元のバランスに戻ろうとする心の作用を誰でも持っている。
ところが、例えば哀しみの真っただ中にいる当事者に対して感情移入する周囲の人たち(テレビの画面から同情する者)は、四六時中いつも哀しんでいると思い込みたがるところがある。だから、月日が経過して事態が推移し、当事者の心が少しずつ回復していることになかなか気づかない。当初に心中を察して自分なりに固めた人間像を抱き続ける訳である。いやテレビによってそう仕向けられているところもある。
話題が逸れるが、人気アイドルに恋人がいることが発覚したり、その人と結婚したりすることも、ファンは許せないと思い、あからさまにその相手に対して嫉妬する。若いのだから好きな人が出来て恋人同士となり、めでたく結婚することは極めて自然なことなのに、それを素直に受け入れられない。人気アイドルという偶像はずっと固定化されたままであり、固定化されるのがまさに偶像というものなのである。アイドルであるが、それ以前に生身の人間なのだということになかなか思いが及ばない。そういったことは思考の中からなるべく排除される。傍から見れば、これも勝手な受け止め方である。
昭和の頃、ある中年男性が心臓移植手術のために渡米した。莫大な費用を要するので周囲から寄付金を募り何とか捻出できた。無事手術は成功し、帰国して元の普通の生活を送れるようになる。ところがパチンコ屋へ通っている姿を週刊誌の記者に見られ、それが記事になった。心臓移植で他人から有り難い寄付を仰いだ者が偶にパチンコで遊んで息抜きしてはいけないのか。一人の人間の暮らしぶりをどう眺めるべきか。当時はそういうことも話題になる世の中だった。
被害者の家族・遺族は、いつまで神妙な顔を見せ続けなければならないのか。神妙でないところはテレビカメラになるべく映らない方がいいのか。映すのを控えるべきなのか。神妙なところばかりを映し続けて過剰な演出になっていないのか。
そもそも報道には不自然なところがいくつもあるだろう。テレビ局の制作側の人間はステレオタイプなのではないか。それは視聴率のためなのか。視聴する方も、画面を消してから当事者をもっと生身の人間として扱って、どこにでもあるような日常生活を送っている場面を思い起こすべきなのかもしれない。相田みつをの本ではないが、人間は「人間だもの」、喜怒哀楽バランスの上で生きている、生きようとしているのである。
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