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 読売新聞に毎月1回程度「言の葉巡り」というコラムが掲載される。4月25日付けの「『息子の写真』『漱石の本』」(編集委員 伊藤剛寛)の記事がおもしろかった。

 「写真撮影、横臥禁止」。寺にこんな貼り紙があったそうだ。観光客の一人が「写真を撮ろう」と言うと、連れが「だめだよ」と貼り紙を指さす。すると、しばらくして一言。「寝ながら写真撮っちゃいけないってことでしょ」。(「青空の方法」、宮沢章夫著、朝日新聞社)
 もちろん、写真撮影と、室内でごろんと横になることを禁じているのだが、そう読めないこともない。
 複数の意味に取れる表現がある。
 例えば「息子の写真」。息子が写っている写真、息子が撮影した写真、息子が所有している写真、息子が今たまたま手にしている写真と、少なくとも四つの意味があるようだ。
 「日本語のニュアンス練習帳」(中村明著、岩波書店)は、このように意味が曖昧になる事例を紹介している。「医者の娘」「再婚した弁護士の妻」「漱石の本」――。
 「の」は名詞を結びつけ、所有、所在、性質、状態、同格、動作の主体など多くの関係を示す。場面や文脈によっても意味が変わる。「『の』はくせものです」(同書)[以下省略]

 日本語の曖昧さ、文法構造の(ある意味での)脆弱さは、言語学や国語学の専門家が既に指摘し、研究され尽くしていることではあるが、それでも日本語は一つの言語体系として揺るぎなく確立され今も維持されている。欧米の言語に影響を受け、それに呑み込まれそうになることも将来的に有り得ないだろう。
 意味の取り違えは喜劇的でもあり悲劇的でもある。落語などではよく登場し、ドラマや小説でも使われる定番の手法と言えよう。それでもコミュニケーションの手段として日本語がほとんど問題なく機能しているのは、そもそも一つ一つ単語によって構成されたやセンテンスやフレーズによって現れた文脈の他に、暗黙のルールやモラルに基づいた、オーラルやリテラルには現れない「思考の文脈」というべきものが認識的に存在するからだろう。
 子供の頃の言葉遊びで、「ここではきものをぬいでください」と書いてこれを読ませて正解を当てさせるクイズがあった。文中にあるのは「はきもの」なのか「きもの」なのかで意味合いが異なる。「はきもの」と答えれば正解は「きもの」でした。「きもの」と答えれば「はきもの」が正解でした。そういうふうに不正解を導き出すトリックである。場面が銭湯の脱衣所なら「着物」、どこかの上がり框(かまち)なら「履物」と理解するのが当然のことだろう。もしそうでなかったら、誤解されかねない平仮名表記は漢字で記し、場合によっては念を入れてるルビを振るかもしれない。
 つまり、現実には誤解が生じることは滅多に有り得ない。その滅多なケースを題材にして落語やドラマは作られる訳である。現実離れしているのは当たり前のことである。
 「の」という助詞についても然りである。「息子の写真」だけではいくつもの解釈ができるようでもあるが、会話の場面を踏まえ前後のやりとりの中でこのフレーズを理解しようとすれば、どの解釈が適切なのかの判断は、判断以前の容易なことであろう。くせものになるのは、このフレーズだけを切り取ってしまうからである。
 実際のコミュニケーションをほんの一部分だけ切り取ってケチをつけることは簡単である。政治家の失言などはその典型だろう。メディアは鵜の目鷹の目で失言を狙っている。これはネタになると思いついたら上手に切り取って記事にする。それに気がついた良識のある読者は、何か後味悪い思いをすることがある。最近のSNSを悪用した選挙活動などはさらに事態を深刻化させている。
 人間はずっとものを考えながら生きて暮らしている。人それぞれの思考の中に文脈がある。人間同士のコミュニケ―ションにおいては、それぞれの文脈が交わる。そのことによってさらに共通の文脈が生まれて新たに展開されていく。その連続性・一貫性を考えれば、誤解などはあまり生じない。諒解に基づくコミュニケーションだけが進展していく。
 以上、私見を交えて書いてきたが、2020年8月25日の「♪真夜中のギター 」も併せて読んでいただけるとありがたい。

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