齢を重ねて老境に近づいてくると、自分が生きていくことに対して少しずつ開き直ってくる。今更若気の至りを後悔しても何も始まらないと考えるようになる。
自分の周辺に存在するものや存在すると言われるものに対して、一々憎悪や恐怖の念を抱くといういうことがある意味で面倒くさくなる。蚊に刺されれば、それをじっと眺めてからぴしゃっと叩いたり、変な虫が家の中に闖入してきても、別に自分に対して危害を加えるようなことがなければそのままスルーするような生活態度になってくる。
幽霊という存在も改めて考え直してみると、あまり厄介ではなくなってくる。どこかに幽霊がいると信じてそれを怖がるのも程々になってきて、終いには恐怖心がほとんど消えている。いや存在そのものを全く信じていない自分に気づく。
理由はいろいろあるようだ。棺桶に片足を突っ込む、などという言い方をするが、人生も折り返して既に終盤に近づくと体力も気力も衰え、自分も半分は幽霊みたいなものであると悟ってくる。幽霊が幽霊を怖がっても洒落にならない、面白くはない。
さらに肉親の看取りも関係してくる。父親が81歳で亡くなったのは私が50代初めの頃だった。亡くなってから、死ぬ前にもっと親父とじっくり話しをしたかった、幽霊となって夢にでも現れて欲しい、そうしみじみ思ったものだった。
その経験があったので、94歳で亡くなった母とは10年以上続いた二人暮らしの中で、母が昔の話しを語り始めたらなるべく耳を傾けようと心がけた。同じ話しの繰り返しでもとにかく聞いてやる。そうすると私の記憶の中に母の人生が正確に格納されてくる。
ただ母の死に方が私の不在の時に風呂場で起きた溺死だったので、死ぬ間際に息子に対して何を言いたかったのか、何と叫んで逝ったのか、それがずっと気がかりだった。今も気になっている。幽霊となって、夜中に私の枕元でその顚末を語りかけてもらっても構わないくらいである。
そんな感じなので、幽霊を怖がる気がしなくなったのである。そして私は何を隠そう、そもそも唯物論者(Materialist)なのである。だから、神様も仏様も正直に言ってほとんど信じていない。神社仏閣へ参拝してお賽銭を出すことはあるが、手を合わせたり柏手を打ったりしても何か具体的なことを祈願したことはほとんど何もない。家族とか友人とかがいる手前、いつもポーズだけで済ませている。神も仏も人間の心の中にだけ良心として存在するものと私は理解している。人間とは弱き者だからそういうものに縋るのである。裏を返せば、私は自分なりの考え方でその存在を客観的に否定している訳である。悪魔も怨霊も、そんなものなどいるかと大いなる疑問を抱いている。魔術や手品ももちろん所詮は幻想、UFOも超常現象も嘘くさく感じている。人間は死んでしまったら粗大ゴミと同じ。あの世も存在しないと考えている。だから、最近はやりの散骨や樹木葬にもあまり興味はない。そもそもそういうことにお金をかけるのは勿体ない。
子供の頃は神経質で弱虫・怖がりだったが、今はもう違う。客観的に説明できないものは存在しないと認識し、若い頃に信じ込んでいた怪しいものからはすっかり卒業した。新興宗教に入信するなんてことは、今の私などには到底考えられない。高齢者の一人暮らしの中には、実はこういうタイプの者が案外いるのではないかと考えている。
幽霊がさほど怖くはない老後 博史
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