テレビのコマーシャルや新聞の折り込み広告などで、高価買取を謳った商売がやたら増えてきている。着物や皮革製品、時計・貴金属など、使わずに眠ってい家財(お宝?)をいかにも高そうに買い取ってくれる旨い話しでもある。あまり私には縁のないことだが、自宅の固定電話にまで、営業担当が「何かありませんか」と声をかけてくるのにはいささか閉口する。食事中や昼寝の時などは実に鬱陶しい。
買った当初は高価だった代物でも、いざ売り払うとなれば相当安く買い叩かれるのは、当たり前のことである。質屋が流行っていた昭和までの頃とあまり変わらない。不要となった衣類や道具類がリサイクルショップでどれだけ安く引き取られてしまうのか、それくらいのことは私でも多少は経験している。古書店に出される書籍も同じである。一般的には消費者を相手に高値取引するなどということは滅多にない。世の中はそんなに甘くない。
しかし、リサイクルショップのみならずこれだけ中古買取の商売が流行っているということは、世の中がいかにモノに溢れ、モノ余りになっているのかを如実に示していることでもある。資本主義社会においては、消費するとは何らかの欲望が伴う行動なのだから、衝動的な側面がリスクとして必ず存在する。極端な言い方になってしまうが、煽られればイチコロで買わされてしまう。大方の消費者はいつもその時点で即、敗北なのである。
高齢者になってくると、モノに対する執着もなくなってくる。生きている己の存在が社会から消えていなくなるゴールが少しずつ見えてくるのだから、執着がフェイドアウトに向かうことは自然な成り行きであろう。年配女性が箪笥の肥やしになっていた和服を買い取り業者に引き取ってもらう心理は極めて自然なことである。
「高価云々」と嘘くさい謳い宣伝文句など出さなくても、眠っていた着物や高級ブランドバッグとしみじみ対面して残りの人生に思いを巡らせば、それらは素直に差し出されることもあるのではないか。執着していた気持ちがある時期に反転するのは実に呆気ない。
テレビのバラエティー番組である実験をしている場面を紹介していた。もう着なくなった膨大な衣類の始末する場合、一つひとつ廃棄するかどうか振り分けようとすると、案外廃棄に回る点数は少なくなる。まだ着られる、廃棄するには勿体ないという心理がどうしても働くのである。しかし、たとえ買い叩かれてもリサイクルショップ業者に引き取ってもらう。あるいは慈善団体などへ寄付する。これらの選択肢を加えて仕分けをすると、どんどんリサイクルや寄付の方に回されるものが増えていく。そういう結末だった。
自分の所有していたモノが消えてなくなるというのはかなり辛いことでもある。でもリサイクルや寄付に回って見知らぬ人にでも使ってもらえるとなると、たとえそれがただ同然、全くただとしても、何とか妥協して少しは気持ちが落ち着くということらしい。
これは空き家などでも同じであろう。自分が長年住んでいた家をいざ解体するとなると実に忍びない。誰かが住んでくれればただでも譲渡したいと思ってしまう。長年乗り回して廃車されることになった自家用車でも、やはりそういう気持ちになるのではないか。
寿命が尽きて自分という人間存在がなくなる。もう死んでしまうことなのになぜかこれも諦めきれない。だからまだあの世があると信じて、魂だけはあの世へ行くことを願う。まっ、神様も仏様も、人間の魂の高価買取はしないだろうが…。
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たいへん共感できる、面白い内容でした。
サスガ三上さん。
いらない衣服などを処分して、いくらかでも部屋を広くすればどれほど爽快な気分になれることでしょう。
生きていくために必要なものは限られています。
…と、悟ったころはもうアチラが近いのでしょうね、笑。
あきこさん、ありがとうございます。
暑い夏が続いております。お互い何とか凌いで、頑張って詠んでいきましょう。