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 巷間の話題となるいろいろな事件の報道を眺めていていつも感じることがある。
 どう考えてもこの被疑者は有罪になるだろうと推定し、実際にも裁判でそのような判決を下される。しかし当人は罪を認めることはせず上級審へ控訴する。そしてさらに再び有罪となる。なおもしぶとく最高裁へ上告する。だが予想したとおり敗訴となり、決して無罪とはならない。なぜこんなにも往生際が悪いのだろうと思ってしまう。
 こういうケースの最終的な顚末(やっぱりどう考えても結局は有罪)は、既に話題性が弱まっているので新聞記事の隅の方で簡潔に紹介される。贈収賄事件などでよく目にするが、凶悪な殺傷事件でも業務上の過失責任を問われる案件でも偶にある。
 そういった人たちの心理的な機序は一体どのようなものなのか、いつも気になっていた。贈収賄事件だと、職務を忠実に遂行してきたことを誇りに思うから素直に承服しないのだろうか。それは政治家や役人、サラリーマンでも同じである。世のため人のため、会社のため国のためにやってきたという自負があるから罪を認めない。その意識がない。金品を貰って決してにやにやしていた訳ではない。それ以上に一生懸命頑張って働いてきたというプライドがあると言い張りたいのかもしれない。
 殺傷事件などでは、長い間刑務所に入って臭い飯を食わされる生活が嫌だからという理由でしぶとい態度を見せる者もいるだろうか。死刑に処されることをひどく恐れ、それが無罪に拘らせている。そういう事例もあるかもしれない。誰でも刑からは逃げたい。なかなか観念することはできない。
 警察での取調べ、検察官からの追及が厳しすぎて、起訴された内容が事実以上に膨らんでいる場合もあるだろう。それに対して承服しがたく控訴・上告することもある。裁判は勝ちか(勝訴)負けか(敗訴)の要素が大きいから、いろいろな駆け引きがある。国家権力側の推定有罪的に主張する戦略的な攻め方に対して、納得できない拒絶感もあるのではないか。
 こういった人たちが出所して再び世間に出てきた時、それでは改悛の情を見せて今更罪を認めるかというとそうでもない。黙り込んだり、相変わらずの主張や弁明を繰り返したりする。過去の言動との矛盾を突かれたくないのだろう。
 もし私が悪いことをして警察の取調べを受けた場合(そんなことはあまり想像したくはないが)は、すぐにバンザイして白状してしまうかもしれない。しかし悪いことをやっていないなら徹底的に無実を主張することだろうか。

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