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 言葉の意味とは何なのだろう。学生時代にソシュールの言語学を少し齧っていたこともあって、歳を重ねた今になっても、言葉にもその意味にも興味が尽きず、自分なりのこだわりを持っている。
 30代半ばで川柳と出合い、それにのめり込んで現在に至っている訳だが、言葉の意味と作品の解釈の関係性に対する関心も私の頭の中ではずっと消えていない。
 一つの事象を説明する場合、説明者の数だけの説明文が出来上がる。そしてその文章を読んで理解・解釈しようとする場合、微妙に違いのある、極端に言えば読む者の数だけの理解・解釈が出てくる。
 法令や公的な文章などの作成は、曖昧で多義的なことを嫌うので、誰が読んでも理解には差異が生じないように文を構成し、厳密に定義された言葉を選ぶことに努めている。
 しかし文の構成はしっかりなされていても、言葉選びの慎重さには限界がある。だからその解釈をめぐって裁判や論争などが発生する。文章の流れの文法的な理解に意見の相違はなくても、それを構成する一つひとつの用語の意味で揉めてくることが多い。用語の意味はそのまま文の解釈につながる。辞書にはすべての言葉の意味が載っているから、辞書をいつも座右に置けば誤解は起きないのではないかと思いたくなるが、現実は、微に入り細を穿った説明を施した某国語辞書でさえも限界が出てくる。時代が変遷する中で言葉の意味が変容する場合がしばしば起きる。限定的で例外的に使われていた意味が広く流布されるようになって、限定的でも例外的でもなくなるようなことは決して珍しいことではない。
 そもそも、言葉に固定的な意味づけをすることにどの程度の意義があるのか。ソシュール的に考えれば、言葉の意味とは、他に置き換われる言葉(多分無数に存在する)との関係性と、それが置かれた文脈の前後の関連性の中でしか成立しない。何と頼りなく不安定なことか。そしてそれを用いるのは人間であることから主観的であることは当然である。
 文芸の世界は、言葉の意味づけに対して常に挑戦的である。既成の意味を勝手に踏み倒す。新たな意味を独自に付与する。意味の突拍子もない展開を平気でやってしまうのである。そのことで読み手の心の中に言語的スパークを起こさせ、それがうまく成功すれば作者も読者も喜びを感じる。読む者に感動を与えながら、旧来の意味を呆気なく破壊した見事さに対しては作者に賛辞が送られる。
 特に詩や短詩型文芸などの韻文表現はそういう行為がある意味で使命にもなっている。そもそも形式を与えられれば、そこから内容的にはみ出したがる習性が文芸の世界にはある。言葉の意味の形式性も当然打破したくなる。韻文における言葉と意味は取扱い注意の代物である。どこまでも病的にこだわっていけば、迷宮の世界に紛れ込みそうになるかもしれない。軽く扱えば、音韻という響きだけを感じる表現形式に浸るだけで終わってしまう。
 言葉のニュアンスなどというのが、要するに言葉への味つけである。付加価値とも言えるだろうか。こういうものがあるから、言葉の意味は余計にややこしくなる。
 以前に「「将来」と「未来」 | 三上博史ブログ (shinyokan.jp)2020年6月17日」という文章を書いたが、いろいろなメディアに出てくる「未来」という単語が、数十年前の昭和時代なら「将来」と言っていたであろうと思ってしまうことに度々出合う。「未来」がやたらと使われていくと、今後「将来」はフェイドアウトしていくかもしれない。
 地球環境、食糧供給、人口減少、世界平和など、どれをとっても世の中は不安だらけである。自分の将来と世界や地球の未来とはほぼ直結する、あるいは重なるようになってきた。持続可能性という言葉には切羽詰まったものが感じられる。未来は遠い先のことではない。自分の将来に引き寄せて考えなければならない。決して他人事ではないのである。こういう言葉遣いの変化は、裏を返せば言葉の意味が時間をかけて動いた一例である。言葉の意味は常に動いて生きている。

 

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