作句するうえで「し止め」はよくない。初心者の頃、そんなことを教わった方は多いのではないか。もちろん私もその一人である。
例えば、句会などで誰かが「〇〇〇〇〇 〇〇〇〇〇〇〇 落選し」と詠んだとする。そうすると、披講の時に、これは「し止め」だからいけないと誰か(長老?)が注意する。私も若い頃に、そんな現場を何度も目撃したことがある。
江戸の古川柳は下五の動詞の終わり方は連用形の活用がほとんどである。それは古川柳が前句付(まえくづけ/今で言う「課題吟」)をもとに「座の文芸」として発達してきたからである。課題に向き合って、いろいろな角度から発想を広げて句の題材を探す。出来上がった作品は、自分(作者)を詠んだ主観句ではなく、写生による対象を捉えた客観句となる。だから、穿ち、軽み、可笑しみの三要素が効いているのである。歴史に題材を採った詠史句が多いのも、むべなるかなとなる。主観句は終止形、客観句は連用形という大まかなカテゴリーが存在している。古川柳の下五動詞の「連用形」は、主観句が主流となった現代川柳では「終止形」に少しずつ置き換わり、これが基本となった。そういう変遷の中で「し止め」も嫌われるようになった訳である。
故大木俊秀さんが、長年携わっていたNHK学園の川柳通信講座の定期刊行物「川柳春秋」において、ある時「し止め」について論じていたことがあった。非常に曖昧な記憶だが、だいたい以下のとおりだったと思う。
江戸古川柳では「し止め」の作品が多い。しかし現代川柳では主観句が主流であり、下五に動詞を置く場合、終止形が一般的となった。しかし必ずしも主観句ばかりではなく、依然として座の文芸では客観句も詠まれている。下五の「し止め」でいけないのは「…食事にし(食事にする)」とか「喧嘩をし(喧嘩をする)」とか「話題とし(話題とする)」の形である。「に」「を」「と」などの助詞の次に動詞の「する」の連用形「し」を持ってくると「…にし」「…をし」「…とし」となり、これらは耳から入ってくると、分かりづらい時があるからである。そしてそれ以外の形、「名詞+し」はおかしくはないのではないか。このような主旨のものだった。
つまり、俊秀さんの説に立てば、先ほどの「落選し」などは全くおかしくはない部類に入ることとなる。私はこの影響を受けて、「し止め」とは「名詞+助詞+し」を指し「名詞+し」は該当しないと理解するようになった。「落選し」は少しも不自然ではない。選をする場合でもこの類の作品を端からボツにするようなことは、私は決してやらない。
ところがである。私が長く会員だった某吟社の知ったかぶりの古株が、ある句会で「『落選し』は『し止め』だから駄目だ。『落選す』ならいい」と言い放ったのである。これには驚いた。「(落選)す」は「(落選)する」の文語的表現である。馬鹿の一つ覚えのように「し止め」はいかんと騒ぎ立て、こんなインチキテクニックを持ち出してくる…。国語の素養がないのか。私は啞然とするばかりであった。
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私は農協発行の雑誌「家の光」で大木俊秀選の川柳欄を愛読していたので、そこで知った『俊秀流川柳入門』を、柳社に所属する前から今に至るまで手引書として愛用しています。
俊秀さんはこの本で、第二部「川柳づくりの基本」の最後に「避けるべき『し止め』とは」の項を設け、「『し止め』とは何か」、「『し止め』が嫌われるわけ」を説明しています。
その終わりの方に、次のような一節があります。
終止形が「〇〇する」という動詞の連用形である「〇〇し」と、はじめに書きましたが、この〇〇は、漢字二文字のケースがほとんどで、音字数でいうと四音である場合が多いのです。迷惑、談合、節約、弁償、信仰、成功、失敗、敬礼……これらの四音の漢字に「する」をつけると六音、「し」をつければ五音。この形の五音を、下五に持ってこないようにということなのです。
もう一つ、熱望し、求愛し、評論し、交際し、了解し、などということばは、頭でっかちの上に、いかにも生硬で、むき出しで、芸がないという感じがしますね。これも、文芸表現上、敬遠されるひとつの理由と思います。
おそらく博史さんの記憶にある「川柳春秋」の方が新しいと思うので、俊秀さんが多少考えを変えられたのかもしれません。
ただ、この本を出された時点では、次のようなことが言えます。
①「四音の熟語+し」は「し止め」として下五に持ってこないようにと言っている。
②「し止め」がよくない理由として、表現上の未熟さを挙げている。
私はこれに納得をしているので、「三音+に、を、と+し」も「四音+し」も推敲の余地のある句と考え、自分では作らない(違う形に推敲する)し、選者としても基本的に入選にはしません。
また「〇〇す」についても、②を根拠とすれば「○○し」と同じことなので(博史さんのおっしゃるように単なるインチキテクニック、ごまかしているだけですよね)、当然作らないし入選にもしません。
(引用部分をできるだけ短くしたので、わかりにくくなっているかもしれません。たとえば引用の前の部分で、し止めがよくない理由として、「いやらしさ、軽薄さ、古めかしさ」が挙げられています)
(ちなみにこの本、俊秀さんにお会いしたときにいただいたサイン入りなんですよ!)
久美子さん、丁寧なコメントをいただきありがとうございます。
件の「川柳春秋」は、川柳関係で些かゴミ屋敷の様相を呈してきた拙宅を更に隈なく捜せば、どこからか出てくるのでしょうが、そこは無精してしまいました。記憶も曖昧なところがあります。
一つ思い出したのは、俊秀さんは「い止め」にも言及していたことです。これもかなり曖昧ですが、江戸古川柳に「母の名は親仁の腕にしなびて居」というのがありますが、古川柳はいざ知らず、現代川柳では「し止め」のみならずこういう「い止め」もいけないと俊秀さんは言っていたような記憶があります。
機会があるかどうか分かりませんが、久美子さんが選者の時には「し止め」は絶対に詠まないよう気をつけます。(‘ω’)ノ