私と同年齢の友人に、選挙権が与えられてから今に至るまで、国政・地方を問わず選挙で投票したことが一度もない輩がいる。もうそれは筋金入りである。ある意味では大したものでもある。
20歳になって投票できるようになった時(昭和50年代初め)、衆議院選挙(ロッキード事件で騒がれていた)があった。その時の彼は、初めての国政選挙でどの政党のどの候補者に1票を投じたらいいのか真剣に悩んで考え込んだらしい。与党の言い分も野党の主張も自分なりに理解できたが、演説する内容や訴える公約について一体どれが正しいのか自分なりに判断することがどうしても出来ず棄権したのである。以後、そんなことがずっと繰り返された。考えてみれば、ある意味相当生真面目な性格と言えるだろうか。鉛筆を転がして正しい選択肢を一つ決めるような安直さで投票用紙に適当な名前を書くことなどできなかった訳である。
選挙戦やその速報などをテレビや新聞で知ることにはいつも興味を持っていて、自分を投票しない外野の立場に置いて選挙結果だけをずっと眺めていたらしい。以来40数年、今もその考え方を貫いている。そして生真面目さ故に、選挙制度についていろいろと情報を集めて自分なりに勉強もしていた。その結果、学校で教わった1人1票という選挙の基本的な考え方も絶対的に正しいものではなく不平等な面もあるのではないかと自分なりに結論づけたらしい。ふるさと納税の返礼品の一つに、地方選挙における1票の行使も入れたらどうかと、半ば冗談で話したこともあった。
外国の選挙制度についても詳しかった。無駄になってしまう死票をどううまく扱えばいいのか。この問題に対して、例えばアメリカのニューヨーク市長の選挙では、死票を減らして幅広く民意を反映させるために、1票で最大5人までの立候補者を順位付けして選べる方式を採り、場合によって何度も集計作業を行っているという。ややっこしいやり方(詳しくはネットで検索してください)だが、そんな選挙があることも私に教えてくれた。
アメリカの大統領選挙は、各州の勝者の候補者がその州のすべての選挙人を獲得する。勝てばまるでオセロゲームのようにひっくり返ってしまう仕組みである。死票の扱いも大事だが、こういう博打的なやり方で一国の代表を決めるのも、よくよく考えるとすごい発想である。こういった事情の歴史的経緯についても彼は精通していた。
さて私について言えば、齢を重ねるにつれて選挙カーのあの連呼の喧しさ、煩さに閉口するようになってきた。家に居て、あの情に訴える叫び声は迷惑以外の何物でもないと感じている。そんなこともあって投票にあまり行きたくなくなってきた。雨が強く降っているような日にはわざわざ選挙のために外出するなんてできないと思うこともある。
投票率の低下傾向になかなか歯止めが効かなくなってきているが、期日前投票とか投票時間の延長などの対策だけでなく、根本からがらりと趣向を変えるようなやり方をしたらどうか。例えば1人1票のやり方から、1人5票ぐらいに増やす。これは私の友人の考えやニューヨーク市長選挙なども踏まえたものだが、もの凄く期待する候補者に5票全部を投ずるとか、そういう候補がいない時には適当に散らして入れるとかが可能となる。もちろん5票全部を白票にしてもいい。1票の格差がどうのこうのと毎回国政選挙後に騒ぎ立てられるが、訴訟を起こすような人達をいくらかは宥められるかもしれない(笑)。
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