若い頃はいろいろなことで思い悩むものであるが、私はある時期「好き」と「嫌い」について深く考え込んでしまった。臨床心理学的には好きも嫌いも感情のエネルギーを対象に放出することだから結果的には同じこと。可愛さ余って憎さ百倍、などという諺があるし、好きで好きで堪らなかった異性がある日突然些細なきっかけで憎らしい存在になる、などという経験はよく聞く話しである。好きと嫌いは同根のものでこの二つの反対は無関心、などともよく言われる。
さて私が考え込んだのはそういうこととは別に、良い・悪い、綺麗・汚い、美味しい・不味い、などの対立的な評価や判断を下す場合、理由をつけてどちらかにはっきり分けようとするが、最終的には好悪の観点を拠り所にしているのではないか、ということである。好きだから良い、綺麗、美味しい。嫌いだから悪い、汚い、不味い。
映画鑑賞などが典型である。この映画は素晴らしいと絶賛する者がいるかと思えば、同じ映画を糞味噌に貶す輩もいる。若い多感な時期の人間は自我の形成が完成されていないので、二つの両極端の意見をどう受け止めたらいいのか大いに困惑してしまう。
政治についても同じことが言える。与党と野党が正反対の主張を行って、どちらが正しいのか悩んでしまう。選挙権を行使できるようになって間もない年齢の時、それほど詳しくは分かっていない政治経済や医療福祉のことなどについて、与党の話しを聞けばそのとおりだと思い、野党が反論すればこれももっともなことだと納得する。一票を投じるにあたって揺れるばかりの自分がいることに気づく。
私なりに人の言動を観察して結論を出したのは、人間とは好き嫌いの主観的な観点で物事の価値や是非を決めているのではないか、ということなのである。理由はもっともらしいが、そこをさらに追及していけば結局はあやふやになり、ついには好きか嫌いかの感情的な価値判断で物事を決めてしまっている。主役のファンだからいい映画作品だと思うとか、党首が二枚目なので一票入れた、などというのが典型だろう。
嫌いであることを表明するのに、生理的に嫌い、生理的に受け付けない、などと強烈なダメ押しの言い方をする場合がある。これは比喩(換喩・張喩)として表現されているが、発した当人は比喩ではなく事実であるような勘違いをしていると受け取れることがある。好き嫌いの心理的世界に、「生理的に」などと修飾語をくっけるのは、木に竹を接ぐような言い回しであるが、当人は真剣にそう感じているのである。論点をすり替えていることには気づいていない。それが世間で通用しているのである。
世の中の事象すべては結局好きか嫌いかに分けられてしまうだけなのではないかと、私なりに慄いた。まっ、こういうどうでもいいようなことで真剣に思い悩むのが二十歳前後の時期なのかもしれない。そんな人間は私一人ぐらいだったかもしれないが。
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はい
同感ですね・
好きか嫌いか、突き詰めれば
全てそこで判断してるような感じ。
人によっては、損得が全てのタイプもあるかな
ありがとうございます。
賛同者がいて素直に嬉しい。
物事を損得で合理的に考えるのも大いに結構だと思います。でも、損とは何か、得とは何かを究極的に考え始めると、これまたややこしく感じると思います。