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 以前に「ただいまぁ!」 |  (2021年7月12日)というブログを書いたが、我が家の母親の内職仕事のことについてふれてみたい。
 記憶を遡って辿り着く最初の内職は、まだ私が小学校に上がる前、麻縄で下駄の鼻緒を作っていた。栃木県は大麻の産地なのでその麻を原料にした麻縄づくりが地場産業になっていたのだろう。縄を綯う作業は、傍で見ていて臭かった記憶がある。どんな作業工程だったかほとんど憶えていない。次は、座敷帚である鹿沼箒を作っていた。これも箒の独特のにおいが漂っていた記憶がある。下駄はもとより座敷箒も今ではあまり使われなくなった。
 それから玩具のハンダ付けをやっていた。大きな玩具製造の工業団地があって、その下請けである。子供が触ると熱くて危険なので、近づいちゃダメだとよく言われたものだった。でもハンダで金属同士(鉛と鉄?)が固まるのをおもしろく眺めていた。
 その後長く続いたのが壬生の名産、干瓢の袋詰め作業である。干して出来上がった干瓢を小分けするために分銅の付いた秤にかけて量る。それをセロファンの袋に詰め、糊付けして封をする。干瓢の臭い(硫黄?)が部屋中に籠っていた。
 それからは私も大きくなって小学6年生になり、母親は内職を辞めて件の工業団地へパートタイマーに出るようになった。ここらあたりは冒頭で触れたブログに書いてあるとおりである。
 岸本水府の有名な句「今にしておもえば母の手内職」は、昭和30年代生まれの私にとっても実感する句である。父親の給与収入だけでなく、母親の内職で得たお金からもいろいろと賄われたことは確かである。内職仕事はどこの家庭でもやっていることだった。
 今の世の中にも内職仕事というのはあるのだろうが、両親が外で働くことが当たり前のようになってきた時代である。親が家で実際に働いて稼いでいる姿は、自営業以外ではなかなか目にすることが出来ない。
 娘が小さかった頃、父親である私が職場で毎日何して働いているのか想像できなかったようだった。質問されて、書類を作って判子を押していると適当に答えていた。ものづくりなら分かりやすいが、事務職というのは説明がなかなかできないところがある。
 内職をしていた母親の背中の印象は深く脳裏に刻まれて忘れられるものではない。5円、10円を少しずつ稼ぐ工程作業である。それを貯めて学校用品や私のお小遣いを捻出していたのだろう。
 パートは私が東京の大学へ行くようになって辞めたが、社会人となり家に戻ってから、今度は縫製の仕事で洋服のタグ付けの内職仕事をしていた。暇になって手慰み的にやっていたのだろう。しかし、いくらタグ付けをしても大したお金にならず、しばらくして辞めたようだった。

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