自己責任という言葉はいろいろな場面で使われて重宝であるが、重宝過ぎて何にでも当てはめられそうな錯覚に陥ることがある。だから、自己責任とは違うと自分なりに判断したことが、他人にいとも簡単に自己責任だと決めつけられると落胆する、憤慨する訳である。勿論この反対のケースもあり、自分としては自己責任だろうと結論づけたことが、責任逃れのようにそうではないとまともに反論されると大いに失望する訳である。
いつ頃からこの言葉が使われ出したのか、欧米の概念の翻訳語なのか、調べればいろいろ出てくるのだろうが、いずれにせよ、自己責任には結果責任の意味合いが含まれているようである。
人が社会の中で何かの行動を起こした時には、その影響として必ず結果というものが出てくる。その結果に対してどういうスタンスをとればいいのか。結果が良かったなら責任などは問われないが、良くなかった時に責任問題が発生して、自己なのか連帯なのか、さらに因果の経路を辿って別の者なのかという責任の所在が議論されることとなる。
自己責任の対義語は、俗っぽく「他人の所為(ひとのせい)」と考えることも出来る。当事者のやり場のない怒り、苦しみ、悲しみをぶつける相手として国や地方団体などの他者に損害賠償を請求するケースもある。そのままでは当事者の気持ちが収まらないのである。その心情も分からない訳ではないが、かなり無理を言っているなあという印象を受ける場面に出くわすこともしばしば経験する。
何につけ行為をする者には常に責任が伴う、責任感が必要である、などと堅苦しい考え方・道徳観念を持ち出して来てそれを押し付けようとすると、世の中は何事も窮屈極まりなくなってしまう。そんなことばかりを常に意識し始めたら、些細なことでも責任問題のことが脳裏を過って何も動けなくなってしまう。行動しようとする気持ちが萎縮するだけとなる。
コロナが世界を席巻したが、いろいろな場面で発生した出来事の責任の所在をどうはっきりさせるのか。とことんそれを追及するには些か野暮な面もあるようである。事態をただ素直に受け入れるべきこともあったのではないか、そういう意見が出てくることも当然であろう。
そして、そんな議論や言い合いを何度も繰り返して世界は回っているのかもしれない。今後もずっとそうなのだろう。
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