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 10年以上前の話しであるが、娘が関西の大学に入って、言葉づかいのことで驚いた体験をしたようだった。わざわざ電話してきたくらいだから相当の衝撃だったのだろう。
 娘は、大学では体育会で武道関係のところに入部したのだが、ある日、部の行事として河原でみんなとバーベキューを楽しむコンパがあった。途中で缶ビールが無くなりそうになってきて、いろいろと準備をやらされていた1回生(1年生)の娘達は、取り仕切っている上回生(上級生)の先輩にその状況を報告しに行った。そうしたら即座に「自分が買いに行け」と関西弁で言われたらしい。娘は、自分とは飲んだ先輩達のことをさし、その先輩達が自分でビールを買いに行くものだと理解してそのままにしていた。やがてそのことに気がついた上回生は「何故買いに行かない。『自分が買いに行け』と言っただろう」と注意した。娘も『自分』とは『私である自分』ではなく『あなたである自分』をさしていたのだとようやく理解し、慌てて酒屋へビールを買いに行ったとか。
 その話しを聞いて、関西では「自分」は一人称ではなく二人称でも使われることを私も学んだ次第である。吉本新喜劇の漫才だけでは分からない、ディープな関西弁を娘はここで学んだようだった。なお4年間の学生生活では、このほかにも「めばちこ」(ものもらい)、「おかき」(煎餅のこと)など、少なくとも関東ではあまり使われない言葉も覚えたようだった。
 ところで、世界にあるいろいろな言語の中で一人称代名詞が二人称代名詞を兼ねるような用例がそもそもあるのだろうか。日本語の世界だけなのではないか。
 欧米人の言語意識では、自己と他者は截然と区別されて表現されるが、日本語では怪しい言い回しがいくつもある。関西弁の「自分」だけでなく、「手前」という人称代名詞も、時代劇などで「手前どもは…」などと使えば謙遜した一人称になり、目下の者に対して「てめえは…」などと乱暴な言い方をすれば二人称の言い回しになる。「己(れ)」も、同じく一人称、二人称の両方の代名詞に使われる。
 英語では「I」は必ず「I」、「you」は必ず「you」となり、これらが入れ替わるようなことは、間接話法の文章で使われる以外はあり得ない。主観と客観の表現がどこまでもきちんと区別されている、強固な自我意識を持った世界観の中で生きているからだろう。日本語は、主観・客観の区別性よりその関係性(相対性)に重きを置いているのだと言える。だから人称代名詞もその関係性の中でバラエティーに富んだいくつもの言い方があるのではないか。
 スイスの心理学者ジャン・ピアジェの発達心理学の理論で、幼児の自我の発達のことを論じた文章を読んだことがある。自我意識が確立していない子供は、自分のことを自分の名前を使って三人称のように呼ぶ場合が多い。例えば花子という小さい子供がいた場合「私にもチョコを頂戴」と言わず「花子にもチョコを頂戴」などと言うケースが典型だろう。これが成長するにつれて自分という存在が当人にもしっかり意識され、三人称のように自分をさすことはなくなり、きちんと一人称の「わたし」「ぼく」を使うようになる。これは世界共通のことであるようだ。
 英語の「you」は日本語の「あなた」とイコールで見做されていない。日本人は目上の人に対して「あなた」呼ばわりすることはあり得ないし、そもそも日本語では面前の人間に対してなるべく二人称代名詞を使わないで会話するようなところがある。また英語で使われる「he」や「she」の三人称代名詞に相当するものが日本語にはない。「彼」や「彼女」という明治以降の翻訳語も英語のような代名詞として定着しているとは言い難い。「元カノ」とか「元カレ」などという言い回しがすっかり日本語に馴染んできたのがその証拠だろう。彼や彼女は付き合っている恋人をさすのが主だったからである。英語は、どんな場面でも人称代名詞の使い方にブレがない。
 一人称、二人称、三人称代名詞のそれぞれにいろいろな言い回しがあり、自分と他者との関係性、上か下か、近いか遠いかなどの場面ごとに微妙な使い分けすることが日本語の特徴の一つということから、こんな言い回しも出てくる。
 例えば孫に対して「じいちゃんにも一つ頂戴」などと言ったりするが、この場合は、場面の中心が孫になっているから、一人称として孫に分かりやすいように「じいちゃん」という言葉を使っている訳である。可愛い孫の立場になって使う呼称と言っていいのかもしれない。それが高じて、孫がその場に居なくても、老夫婦が「じいちゃん」「ばあちゃん」などと呼び合ったりする。
 以上いろいろと書いてきたが、人の呼び方、人称代名詞の取り扱い、主語の使い方などの言語的特徴から日本人独特の自我意識、他者との関係意識が浮き彫りにされてくることを論じてみた。

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