大学生になると大方はアルバイトをするが、私の場合、最初に消臭剤のセールスマンみたいなことを都内の住宅街でやって、あまりの大変さに1日で辞めてしまった。次に大学のアルバイト募集の掲示を見ていたら、時給400円という日本橋の酒店の配達が目に留まった。
昭和50年のことで、当時の学生アルバイトで時給400円というのは比較的高い方だった。昼食も出るということだった。その店のご主人が言うには、ビールの大瓶のケース(20本入り)、清酒の木箱(10本入り)はそれぞれ相当重くて、それを自転車に積んで運ぶのは大変な力仕事だから高めの時給に設定したということらしい。時給に目が眩んで私はすぐやりますと答えてしまった。
初めて出勤した日のことは今でもはっきり憶えている。名前だけは知っている東京の日本橋とは一体どんなところなのだろうと興味津々で地下鉄に乗り、三越前で降りて地上に上がるとユニチカの大きなロゴの表示が貼ってあったJPビルの建物がまず目に入った。10数階だったと思うが、当時としてはかなりの高層ビルに見えた。ガラス張りで洒落たデザインだった。歩きながら道路に電柱がないことにも気づいた。こんな道は生まれ育った栃木には無い。青空がハッキリ見えたが、逆に何でもスッキリ見えて妙な感じもした。
それから日本橋界隈の飲食店(居酒屋・焼き鳥屋・おでん屋・割烹・喫茶店・社員食堂など)を中心にビールや酒、醤油などの調味料の配達をやった。週1回、毎週金曜日が授業のない日だったので、その日をアルバイト日に決めていた。これ以外はご主人夫婦が二人で頑張っていた。デニムより厚手の木綿生地の前掛けをして、黒塗りの頑丈な業務用自転車に乗って駆け回った。
日銀の旧本館は確か当時の千円札の裏に載っていたと思うが、ペダルを踏みながらそのとおりの実物を思わず発見した時は驚き、わざわざ自転車を止めて眺め入った。三越本店も地方のデパートでは考えられないくらいの風格を感じた。地方と言っても宇都宮にあるデパートぐらいしか知らなかったが…。名前の由来となった日本橋そのものも見たが、最初はそれとは気づかず通り過ぎてしまった。首都高速の下にあって景観的にもイマイチ、おまけに流れている川も澄んではいなかった。
仕事はきつかったが、社会見聞を広めることには役立った。自転車に乗って仕事しながらの路上観察は厭きることがない。好奇心のアンテナはいつも立ったままだった。夏休みや冬休みに入ると週5日働いて稼いだ。春先から1年間務めたので、夏の暑さや冬の寒さもしっかり経験した。
日本橋は製薬会社の本社も多い。テレビのコマーシャルに出てくる名前がいくつも見つかった。また地方銀行の東京支店も集まっていて、北から南まで大方の銀行は揃って出店していた。十六銀行は岐阜の銀行、羽後銀行(現在の北都銀行)は秋田県の銀行で、そういうこともしっかり憶えた。そして今も忘れていない。黒ずくめの駿河銀行(現在のスルガ銀行)の建物も印象が強かった。
店の方は、夕方になると立ち飲みが始まる。カップ酒や缶ビールを片手に柿ピーなんかを食べながら中高年男性が数名、代わる代わる談笑している。決して椅子などに腰掛けようとはしない。若かった私には、全く以て落ち着かない飲み方だなあと感じられた。でもみんなそれなりに寛いでいた。酔ってくると、どこから来たの、どこの大学生などと私のことを尋ねてきて適当に答えていた。
アルバイトは1年間だけだったが、地方から出て来た田舎者の思い出として強く心に刻まれた。東京の中心部はこんな形になっていて、こんな具合に毎日機能をしているのかということを私に印象付けさせたのである。
それから40年が経過した10年数年前、私はもう60歳近くになっていたが、たまたま東京へ行く出張があって、訪問先が日本橋に近い所だった。今の日本橋がどうなっているかを無性に知りたくなって早めに栃木の我が家を出発して路上観察することにした。JRの神田駅から中央通りを歩き始めて、いくつもの横丁に入って街並みを眺めていくと当然風景は様変わりしている。かつて何度も配達に行った料亭がまだ営業しているのを発見すると感動ものだった。バブルを挟んでいるので、都市開発によって建てられたお洒落なビルばかりが林立しているが、当時の建物が変わっていない製薬会社がいくつもあった。
驚いたのは、あの最初に印象が残ったJPビルが何と解体中であったことだ。まさかこれが無くなるとは予想外のことだった。深いため息が出た。
働いていた酒店は2階建ての古い建物だったが、バブルに抗うようにビルの谷間に残っていた。もう酒類販売の営業はしていなかったが、いくつもの自動販売機が置いてある無人店舗になっていた。
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