〈朱雀洞文庫〉は、尾藤三笠、三柳、一泉の川柳家三代によって収集された史料ですが、もともとは、5万点を越える川柳を中心にしたものでした。最近は、少しずつ史料の整理が進み、祖父・三笠の代にスクラップした新聞や撮り溜めた写真により、川柳以外の分野でも有意義な資料があることがわかりました。
そこで、関東大震災当時の生の新聞、写真、そして当時のグラフ誌などをネット公開していたところ、出版社、広告会社がその写真を使いたいと言うことで、お手伝いさせてもらったりしました。
驚いたことに今日は、HNKの番組のプロデュ―サーが、「神楽坂と関東大震災」についての調査ということで、わざわざ朱雀洞文庫まで訪ねてくれました。
もともと、3月11日の東日本大震災の直後、「地震と川柳」というテーマで記録を残す意味で、書庫を探して見つけた資料ですが、公の番組に何がしかの役に立つと言うことで、嬉しく思いました。
江戸には、安政の大地震という川柳家自体が被災し、恐怖を味わった経験がありながら、地震を扱った川柳はありますが、地震の被害や被災者の心を読んだ句が一句もありません。
鯰の外はゆるがせぬ君が御代 誹風柳多留123別篇
といった、縁語仕立ての狂句のみで、地震の怖さもその被害者の心理も伝わりません。
それに引き換え、大正の関東大震災では、阪井久良伎をはじめ井上剣花坊ら多くの柳人が被災、それぞれに句を残しています。
日本橋廣重の見た富士が見え
揺り返し結飯持つた侭逃げる
トタン屋根死んだが増しの声が洩れ (以上 久良伎)
東京に半分鳴らぬ除夜の鐘
萬歳の足駄に府下の霜柱
焼野原焼けない町の屋根が見え
其の後の火の手は人を焼く烟(けむり)
小便と時計で駅に用が有り (以上 剣花坊)
など、江戸川柳とは異なる息遣いが伝わる表現です。
阪神大震災でも東日本大震災でも、多くの柳人が句を残し、作者や周囲の被災者心が生に伝わってくるのを吟社の特集や「川マガ」からも感じたことでしょう。
このギャップは、安政の大地震の折には、五世川柳の「柳風式法」によって、「不吉がましいこと」は、一切、選句をしてはいけない…すなわち、句を作ってもいけないと、自主規制の箍が柳人にかかっていました。これは、五世川柳が悪いのではなく、天保の改革という厳しい言論統制の最中に、川柳を生き延びさせるに必要なものでした。
反面、それが、自由な表現、作者の感情といったものを、川柳の上に現すことを否定してしまいました。
このあたりの事情を地震の川柳を調べる過程で気付き、大いに文芸の在り方を考えさせられました。
その時作ったのが「地震と川柳」の小著です。

川柳を考える一つの切り口として、ごらんいただけると幸いです。
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