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 オーラはWikipediaで以下のように説明されている。
 [現代日本では、人間の存在感や風格がある様子を指して「オーラがある」と表現することがある。単に「人間の雰囲気」という意味でも使われる。英語のauraは18世紀に使われ始めた言葉で、花などの微かな芳香、人や場所に感じられる独特の雰囲気などを表す。英語としてはやや文語的な表現である。](抜粋)
 実のところ、私はこのオーラという概念をあまり信用していない。花の微かな芳香は鼻腔に漂って来て嗅覚を刺激するので確かに存在するものだろうが、人や場所の独特の雰囲気と言われると、かなり抽象的で怪しくなってくる。いや抽象的に思えてもその雰囲気の具体性を調べれば、何故そこにオーラがあると感じられるのか判明するのではないか。しかしそんな解明を試みるのは野暮というもので、オーラを感じている人にとっては抽象を抽象のまま素直に受け止めておきたいと思うものだと言われそうである。
 私は心理学至上主義者なのである。抽象的な概念に出くわすとその存在の奥行きと周囲を探りたくなる。こんなことを言い出したのは、NHKの短歌番組の中で、王朝文学をテーマにした大河ドラマを取り上げて、物語やそこに出てくる和歌を取り上げていたシリーズがあり、その出演者の話しぶりに毎回違和感を覚えたからである。
 ドラマと和歌を丁寧に解説してくれるのは勉強になり実に有り難いのだが、登場人物のすべてにオーラの存在を感じて、それを前提にドラマの内容と展開の面白さを語っているように思えるのだ。だから、話しを聴く方もこれを汲み取って視聴しないと分かりにくいのではないか。私はそのように受け取っている。逆に言うと、ドラマの世界に入り込んでオーラを感じ取れれば、すべてがファンタジックでかつそれがある意味でリアリスティックに見えてしまうものなのだろう。優雅なドラマだから俗っぽい生活感などはすべて捨象されている。だからオーラに満ちたファンタジーの世界へは素直に入り込みやすい。
 短詩型文芸の楽しさは愛好家によっていろいろと紹介されているが、その文学性の嫌味なところについてはあまり語られることはない。私が考えるに、短詩型文芸にとってオーラの考え方は嫌味になる場合があるのではないか。オーラの世界に一旦入ってしまえば、作者への共感と作品の素晴らしさが自分の心の中にすんなり沁みてくる。そして逆にオーラを感じられなければ、作者と作品に幻滅することへつながり、結果的に否定的な評価につながる。その作品との向き合い方はそこでもう終わってしまう。
 オーラという概念は、短詩型文芸においては両刃の剣である。小説やドラマ・映画の世界以上に、まず作品に対して好意的な態度になることが望ましい。個々の作品のボリュームが少なくて省かれた影の部分が多く含まれている短詩型は、褒めればいくらでもそうすることができるし、貶し始めたらきりがない。オーラの考え方でそれが増幅される。
 美意識などもこれと同じなのではないか。美醜の価値的概念の相対的・主観的世界とオーラには親和性がある。だから人によって、あるいは時代が変われば評価がひっくり返るような事態が起きる訳である。
 スターと呼ばれる芸能人やスポーツ選手などにオーラを感じるのも、観る方、聴く方にそれを感じ取ろうとする期待感が既に膨らんでいるから自然とそうなるのである。いきなりスターに出くわしたらそうはならないだろう。スターだと既に気がついているから、自然とオーラの雰囲気を嗅ぎ取れる。
 美味しいと評判のラーメン屋へ行く。混んでいるので順番待ちとなる。行列に並んでしばらく待たされ、ようやくテーブルに着席して食べるラーメンの味は、行列に並ばずすんなり食べることができた場合と比べて旨さが格段に増しているのではないか。ひょっとしたら、たかがラーメンだけど、どんぶりに盛られたラーメンそのものとそれを作る料理人にオーラの雰囲気が漂っていると感じ取るかもしれない。
 オーラに関することは、すべて人間の内面世界のことである。それを外へ投影しているだけなのである。動植物や宇宙人には理解できないことだろう(笑)。

  美人だと言えば美人になる女優   博史
  行列で待たされ旨いラーメン屋   博史

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