以前、「IdeaとReasonを少し哲学的に考える 」(2022年4月18日)というのを書いた。「理性」などという言葉は所詮欧米言語の翻訳語、それにそっくり相当する単語が日本語には見当たらない。したがってその小難しい概念は普遍的なものではないことを一応論じたつもりである。さて今回は「感性」についてである。
ハイ・ファイ・セットが歌ってヒットした「フィーリング」の発売は1977年。これを受けたのかどうかは不明であるが、フィーリングなる言葉が巷でやたらと使われるようになった。「あの人とはフィーリングが合わない(だから別れることにした)」とか「この音楽は私のフィーリングにぴったり合う」とか、こんな感じでよく用いられたものだった。
それからさらにこの言葉に高級感の付加価値を付けるようにして、感性という言葉が使われ始めた。「あの人とは感性が合わない」「この音楽は私の感性にぴったり合う」などと用いられ、フィーリングからタッチ交代したような印象があった。当時の作家や芸術家がよくこんな言い方をしていたような記憶がある。
フィーリングは、動詞「feel」の動名詞。感じるの名詞形である。日本語に訳せば感情になる。俗っぽく言えば感じ方や気分になる。そして感性ともかなり意味合いが被る。それらを包括したような概念にも受け取れる。感性は理性とは正反対の概念と捉えられることもできるだろうか。理性が欧米から輸入された曖昧な概念なのだから、感性だって相当曖昧であるとも言える。手元の辞書を開けば、感性は、感受性(sensitivity、sensibility)と同じという説明もあった。
曖昧かつ抽象的な言葉というのは、何にでも使えて重宝がられるが実体が極めて怪しいものとも言える。
感性が曖昧かつ抽象的なら、感じ方も気分も感受性も曖昧かつ抽象的である。何に使ってもOKとなる。ということは悪用、意図的な誤用も可能となる。男が付き合っている女に対して「君とはフィーリング(感性)が合わない。だから別れよう」などと、ホンネの理由は単に飽きてきただけのことなのに、もっともらしい理由付けがあるようにしてこんな言い方を使う。
こういういい加減な言葉というのは、いつの時代でも社会に蔓延している。流行の浮き沈みはあるにせよ、世の中の言語体系はこういういい加減さからも実は支えられている側面がある。
理性はもとより感性も哲学用語。高名な哲学者がいろいろと論じているが、それはその世界だけの話しである。世間一般には広まらない。新たな知見に基づいて、客観性・普遍性を有すればもちろんそうならないだろうが、なかなか社会が認知して受け入れようとしないのである。私は個人的には世の中の語彙は半分以下に減らしても、人と人とのコミュニケ―ションにはさほど支障がないと考えている。ところが語彙は常に増殖している。地球規模で社会が複雑化しているから増殖が止まらないのだろうか。これも資本主義の所為だとは言わないが…。
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