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 今年の2月、岸田内閣の首相秘書官の一人が、LGBTQなどの性的少数者について「見るのも嫌だ」「隣に住んでいるのも嫌だ」などの差別的発言をしていたことが表沙汰になって、あっさり更迭された。
 その時私は、正直な人だなぁ、と素直に思った。差別的な発言は当然いけないことだが、自分でそう感じた、思ったことは誰も止められない。
 その後私は、この秘書官は、ほんとにそういう人が隣に引っ越して来たら嫌だと思うのだろうか、と真面目に考え込んでしまった。もし自分がそうなった場合はどうなるのか。当初は嫌だと感じていても次第に慣れてくるのではなかろうか。それは無理ときっぱり断言する人もいるだろう。しかしずっと無理を通すのだろうか。これも大変な心理的労力が要ることだろう。
 子供が、人参やピーマンなどを嫌いと言ったりするが、いい大人(何歳からを言うのかは主観的なことだろうが…)が、真顔でそんなことをカミングアウトしたら、場合によっては嘲笑の的になる覚悟が必要だろう。LGBTQと野菜の人参やピーマンを同列に扱うことはけしからん、不謹慎と非難されるかもしれないが、そもそも自分にとって無理なこととは一体何だろうかと改めて真剣に考えるのも大切なのではないか。
 若い男女の恋愛ドラマなどで、一方からいきなりプロポーズを受けて、もう一方が心中「私には無理」と呟くような場面がよく出てくる。しかし物語の展開で無理が一気に反転し、磁石のようにして二人がくっついたりすることもよくある。
 無理は主観的なものである。主観的とは移り気なことでもある。偏見、差別、憎悪感はある意味ではこだわりであり、それを維持するには、それなりに精神的なタフさを持っていないと続かない。結構疲れるものである。歳を重ねていくと心のスタミナも切れてきてそれで性格が丸くなり寛容的にもなる。何事もそれでいいんじゃないか、そういう考えになってくる。
 隣にどんな人が引っ越してこようが、何か事件が起きたり迷惑になったりしなければ、まっ、それでいいかということに落ち着くのではないか。自分の現在抱いている心の行く末について、この首相補佐官も少し想像を巡らしたらよかったのに、と素直に思った。

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