私のかつての川柳仲間で文章を書くのが好きな人がいた。私とは親子以上に歳が離れていて大正生まれ。戦争(特攻隊を志願したとか)にも行った方で既に亡くなられているが、小さな吟社の代表で柳誌の編集もしていた。あとがきにいつもエッセイみたいなものを載せていて、毎回短文だが実に上手い。少し長い随筆を何かに書いていてそれを読ませていただくと更にこれもおもしろい。起承転結のメリハリがきちんと出来ていて、川柳作家であると同時に一角の文筆家でもあるように見えた。夫婦で町工場の印刷所を経営していて、活字となる文章には日々いやというほど接していたようだった。
その人が、川柳(韻文)が上手な人は文章(散文)も上手に書けるものだ、とよく言っていた。決して自分のことに引き寄せて自慢するように話していた訳ではない。その人が詠む川柳作品は独自の視点や発想で詠んだものが多かった。大会の披講の時に少しどよめくような句が読み上げられた時、その人が呼名すると、やっぱりそうかあの人かと頷かれることが度々あった。川柳も文章も上手い、まるでもの書きの手本のような羨ましい人だったのである。
川柳が上手く詠めても文章の下手な人がいる。言葉遣い、文の流れなどに眉を顰めたくなるようなことを平気で書き連ねてくる。文脈や意味が分からない時もある。当人は少しも気にしていないようなのだが、読み手にはきちんと趣旨が伝わらない。そういった人の川柳作品をよく読んでみると、一見佳句に思えたものでも重たそうな小難しい言葉(熟語や漢語など)を詠み込んだ、あまり中身のない句が多いことに気がつく。散文と韻文の作法は、当たり前のことだが言語表現という創作活動の中では深いところで必ず通底している。車の両輪の関係と言ってもいいのかもしれない。文章が下手なら川柳も実は下手なのかもしれない。
滅多に文章を書かぬ人のエッセイなどを読んでみると、文法的におかしい表現や漢字の使い方の間違いがあっても、書いた人の人柄が滲み出ているような朴訥とした味わいを与えてくれるものもある。だから、文法や表記の正しいか間違っているかの形式的な観点からあからさまに批判するのもいけないことだとも思う。人が書いた文章が与える感動はこれらの決まりや形式を超えるものだからである。
句でも文章でも自分が感じた、思ったことを素直に詠もうとする、書こうとする。この原点を忘れなければ、知識や教養が有るとか無いとかに関係なく、人に伝えるべきことは必ずそのままきちんと伝わるのだろう。
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