川柳研究会「鬼怒の芽」が第300号発行の節目を迎えた。50号単位でエッセイ特集の別冊を綴ってきた。今回の別冊に載せた拙文を転載したい(原文は縦書き)。
平成九年と令和四年そして二五年後
川柳研究会「鬼怒の芽」は平成九年に始まった。当時私は四一歳。娘は確か小学校二年生だった。私は平成四年頃、三六歳から川柳を詠み始めた。最初は下野新聞文芸欄への投稿、それから下野川柳会に入会して例会に出席。入門書も買い漁って上達しようと試みた。新聞に作品が載り活字になること、例会で抜けて呼名すること、これらに興奮し喜び、それだけでもうこれは自分の生涯の趣味になるだろうとはっきり手応えを感じた。運命的な出合いだったのである。
平成七年頃から全国の誌上大会などへ少しずつ投句するようになった。佳作程度で入選するだけでも喜んでいたら、ある時、青森の方であった大会で特選に入り大きな盾を送られて来た。俄かに信じられない程の朗報で、夢のような心地になった。それからは更に投句するようになり、入賞回数も増えてきて楯や賞状がコレクションのように溜まり始めてきた。
丁度その頃に発足したばっかりの「鬼怒の芽」に入らないかと誘いがあったのである。毎月一回、金曜の夜六時から中央生涯学習センターへみんなが集まる。私は五時一五分の退勤時刻になると脱兎のごとく職場を離れ、新四号国道の裏道を飛ばして現地へ向かった。正直に話すと、その頃の私は少しプライドが高かった。提出した自作が合評で貶されると些か不愉快になることもあり、シャカリキになって反論したこともあった。若かったのである。聞く耳が小さかったのである。でも少しずつ勉強になったのは間違いない。川柳作家としての今の私を育ててくれたのは、間違いなく鬼怒の芽なのである。
それから二五年、鬼怒の芽はこの度三〇〇号を迎えた。いろいろ紆余曲折はあった。言いたいことはたくさんあるがここでは一切省く。単純計算すると、この先二五年を経れば六〇〇号を迎えることになる。その頃はどうなっているのだろうか。私は九〇歳を超えている。生きているとしても、娘夫婦がいる京都に住んでいることだろう。鬼怒の芽が続いているかどうかも疑わしい。そもそも川柳愛好者の高齢化と減少傾向で柳壇は危機的状況が始まっているのではないか。FacebookやTwitterなどでは、短歌や俳句のネット歌会・句会が盛んに行われているが、川柳は格段に少ない。日川協の理事として、公式ホームページのリニューアルを担当しているが、柳壇のじり貧状態を少しずつ抜け出すために最低限のことはやって行こうという姿勢で作業を進めている。Z世代などには短詩型文芸などは見向きもされないのではないか。興味を持ってくれるのは、精々サラ柳と企業が募集するテーマ川柳だけではないか。嗚呼、深いため息ばかりである。私のマインドの中から川柳が消えたら、私の魂は消えてなくなってしまうことだろう。想像するだに恐ろしい。
でも頑張る。三六歳から私は川柳に育てられてきた。だから五年前の定年後からは、その恩返しも含めて、川マガや新聞柳壇の選者、川柳講座の講師を務めているのである。日川協での活動もずっと関わって貢献していきたい。どこまで出来るか分からないが、とにかく続けていきたい。地道に汗をかいてやるだけである。
先ほど述べた、二五年先の六〇〇号という話しはほとんど夢のような軽い冗談である。そんなことより毎月の鬼怒の芽を地道に続けていけば、更に三五〇号、四〇〇号と到達できるのではないか。そんなささやかな希望を抱いてこれからも精進していきたい。
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