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 7月30日のブログで、自動詞と他動詞のことを書いたが、10月31日に行われた久しぶりの衆議院議員選挙で「世の中が変わる」という自動詞的世界、「世の中を変える」という他動詞的世界のことをいろいろと考えた。
 衆議院選挙で1票を投じる国民一人ひとりの行動は他動詞的である。選挙の結果が出て当選者が決まるという状況は他動詞から自動詞へ軸足がシフトしていく過程となる。当落の結果が集計され、これをもとに国会で総理大臣が選ばれ組閣されていく。そして改めて政治が始動する。国民の負託を受けた議員が立法府で活動する訳だが、これは国民(有権者)にとっては自動詞的状況へ変化していく世界になってくる。
 政治家が選挙で訴えたことが実行されなかったとしても、それを支持した国民は何も出来ない、動けない。精々やれることは次回の選挙で別の政党や立候補者へ1票を投じるという行動だけである。国会の様子をテレビから眺めることは出来るが、一度物事が決まってしまえばすべておまかせの世界になってしまう。もちろん世論、国民の監視というものが機能するが、一人の人間としてはやはり力を持っていない。例えば、消費税を上げる(他動詞)のは国会・行政(政治家・役人)で決めることだが、国民にとっては消費税は上がる(自動詞)ことなのである。つまり国民は消費税の上げ下げに対して、いろいろ騒いだとしても結果的にほとんど何もできない。
 ポピュリズムについていろいろ言われるが、民主主義の本質としてポピュリズムが内包されているのだから、これは仕方がないものである。今回の選挙戦を見ていると各党によるバラマキ合戦の様相を呈していたが、こういった迎合的な訴えというものは容易に想定されることであった。国の借金を減らすために国民も少し堪(こら)えてください、踏ん張ってください、などと言い回る立候補者など滅多にいない。 
 一人ひとりの世の中を変えようとする意志が大きく集まれば、世の中は変わっていくのだが、このプロセスというのは常に正しいものとは限らない。いやどういうものが正しいプロセスなのかもポピュリズムの中では分からない。選挙で勝った政治家の集団の考えるところが結果的かつ相対的に正当なものになるのである。
 政治について、もっと積極的に他動詞的に行動しようとするなら、自分が選挙に立候補すればいいのだが、それは奇特な人である。あまり存在しない。日本人は、選挙という行動をとって他動詞的に動いても、その後は一気にあとは任せたの自動詞的状態になってしまうところがある。ほとぼりが冷めるのが早い。政治というものは結局なるようにしかならない。欧米のアクティブでアグレッシブでもある政治思想がすべて正しいとは思わないが、選挙制度、いや選挙そのものが日本人に馴染んだものなのか、改めて疑問を持ってもいいのかもしれない。
 政治って何だろう? 民主主義って何だろう? 私は政治にあまり興味はないが、興味がないからこそ、こういった冷ややかな疑問が湧いてくるのである。

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