当たり前のことだが、人間は強い者に対しては弱い立場となる。ただし「強い」という言葉の意味にはいろいろあって、手元の辞書をひいてみると、①相手に打ち勝つ能力がある、➁勢いがあってなかなか衰えない、③支配的で否定・無視できない、のおおよそ3つの意味が示されていた。
③の支配的で否定・無視できないというのは「権威」につながり、人間は強い者が持っている権威に対して弱いということを示している。権威とは自分とは立場が上のことでもある。平社員は上司に、患者は医者に、役人は政治家に、はっきりものを言うことができない。
そんなことはない。仕事で他人にぺこぺこせず己の信ずる道を突き進んでいる立派な人間はいくらでもいる、そう反論する御仁もいるかもしれないが、そういう人達は、例えば家の中では婿養子で奥さん(の家の権威)に頭が上がらない、などという場合があったりする。全方位で権威や力を示せる人間なんていないだろう。関係性によって生きる社会的動物の宿命というか、上と下と横の連鎖の中で人間はすべて生活している。自分に権威が大いにあっても他の何かの権威に弱いということは決して不自然ではない。逆に人間らしいとも言える。
川柳は誹風柳多留の時代、作者は無名・匿名(読み人知らず)であった。しかし明治以降は座の文芸として作者名が表記されるようになり、作者やその作風を踏まえて作品を批評・鑑賞する傾向が出てきた。作者が著名な作家であるとその権威(威厳)を意識せざるを得ない。
著名な作家の作品だから優れた句であり、無名の作者の句だから大したものではないという先入観が生まれやすくなってくる。しかし有名、無名とは関係なく、作品そのものから自分なりに秀句と思う句を掘り出す。これは川柳鑑賞の醍醐味である。大袈裟に言えば反権威主義なのかもしれない。私が「川柳の神様Ⅰ」(新葉館出版)を書いたのはそこに理由がある(なお「Ⅱ」の刊行を現在鋭意準備中)。
俳句などでは「師系」という言葉が使われる。誰それに師事したということが重視される訳である。私はこの言葉があまり好きではない。茶華道の家元制度ではあるまいし、読んで素直に共感する素晴らしい作品をたくさん詠む川柳作家が、一方的ではあるが自分の師なのではないか、そのようにいつも思っている。だから師と弟子の関係は交わることなくいつも一方通行となるが、それはそれで満足している。
30年近くの私の川柳人生で自分の師だとずっと思っていた特定の作家はいない。それよりも作品本位で敬服する人を見つけている。本ブログでかつて桑原武夫の第二芸術論について論じたことがあったがが、「師系」などという考え方そのものが、桑原に揶揄される代物なのではないかと思っている。
これからさらに進化していくネット社会においては、そもそも「師」などというベタな言葉はあまり流行らなくなるだろう。実際の人間をさして「師」というのではなく、書物とか情報コンテンツなどの事物を「師」と感じる場合がもっと増えていくのではないか。
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