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3月10日は、かつて陸軍記念日でした。
 その祝節に日本の鼻を挫こうと東京大空襲が行われ、下町の大半を焼夷弾が焼き、64万戸がしょうしつ、22万人とも言われる人が罹災しました。
 日本にとっても首都が焼かれる異常事態でしたが、この時、多くの歴史的文物や史料も多く失われました。
 以下の写真は、昭和12年に再建立された龍宝寺の初代川柳句碑の写真で、再建の中心となった村田周魚翁が写っています。
 この碑は、天保10年に五代目川柳によって建てられた初代川柳辞世の句碑が関東大震災(大正12年)によって失われた事から、東京の川柳家を中心に全国の有志がこぞって再建立したものでした。
 それが、わずか8年後に空襲によって木っ端微塵になってしまったのです。
 今も世界各地で戦争があり、空爆後などの瓦礫を見るにつけ、多くの命と共に文化財や知識が喪われたのだなあと思わされます。
 戦後10年を経て、昭和30年に句碑は3回目の建立となり、今日に受け継がれています。
 川柳という小さな文化も、意志の強い先達のお蔭で今日まで引き継がれてきました。
 川柳の歴史文化に誇りを持ち、愛情が持てる存在にしていきたいものです。
「戦争の中の川柳」RyuTubeもご覧くださいませ。
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3月10日 戦争と川柳に思う”にコメントをどうぞ

  1. 月波与生 on 2026年3月12日 at 9:58 PM :

    戦争と川柳を語る時、鶴彬の反戦活動は川柳人であれば広く知るところですが、併せて川上三太郎の果たした役割(一般的には選者として翼賛的な句を高く評価し、戦争協力色を強める方向に導いた点が顕著であった)も語り継ぐべきだと考えています。現在の川柳界もまた似たような状況と感じてます。

    • 尾藤川柳 on 2026年3月16日 at 8:13 PM :

      ありがとうございました。
      それも大切な目ですね。
      三太郎先生は、始まってしまった戦争に反対するというより、川柳をもって国威発揚に力を注ぎました。
      もうひとつ、どちらにも加担せず、何もなかったのように戦時下に無関心悪を作り続けた柳人も少なからずおりました。
      間違っていけないのは、鶴彬は「反戦川柳」ではなく「プロレタリア川柳」を推し進めた作家で、ごく一部に反戦的作品があったにすぎません。
      過ぎてしまった時間を、その時間に戻っては批判できません。
      三太郎先生も、国が負けないようにと思い、それが川柳に現れたものでしょう。
      戦争は、始めてはいけません。
      始まらないようにしなければなりません。
      が、一庶民の一川柳家の力は、どれ程のものでしょう。
      ほんとうにキナ臭い世の中になってきたようで、川柳家の在り方も心しなくてはなりませんね。

  2. 山﨑草太 on 2026年3月15日 at 4:56 PM :

    久々に川柳マガジンのブログを開いたら尾藤川柳川柳Blogが生きていました。。
    これからもお忙しいと思いますが続けていただきたいと思います。
    地方の者は楽しみにしております。

    • 尾藤 川柳 on 2026年3月16日 at 8:15 PM :

      ありがとうございます。
      大学の出講がない2月、3月の事で先がどうなるか判りませんが、開店休業にしっぱなしになっていて、麻衣子女史に叱られました。
      続けられるように、努力してみます。
      どうぞよろしくお願い申し上げます。

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