
その後はこはごは(怖々)翁竹を割り
先日、映画「ちいかわ 人魚の島のひみつ」を観た。ファンタジックな絵柄とは裏腹に、大人の鑑賞にも堪える物語が展開する。
ネタバレを避けるため、筋書きは大まかにしか書けない。ある無自覚な行為によって命が失われ、そこから恐怖と憎悪の連鎖が始まるという話だ。
誰もが、知らず知らずのうちに誰かを傷つけている。
冒頭の句は、そんな危うさを思わせる古川柳である。
「その後はこはごは(怖々)翁竹を割り」
竹の中に人間がいるはずなどない。そんな当たり前の常識を、かぐや姫の出現によって覆された翁。それ以来、竹を割るにも怖々となったというわけだ。何気ない日常の行為に、思いもよらぬ危険が潜んでいることを知ってしまったのである。
川柳は軽みを身上とする文芸だから、これをおとぎ話めいた笑いに仕立てている。しかし、笑いながらも、現実にも同じようなことが起こり得るのではないかという不安が、読み手の胸をかすめる。
この句と対をなすのが、老婆が流れてきた桃を割ったところ、頭を割られた桃太郎が出てきた、というおなじみのギャグだろう。
桃を割るのは、誰もが疑わない、ごく自然な行為。ところが、その結果は悲劇にも喜劇にもなり得る。その後の一般的な桃太郎の物語では、鬼退治という暴力が待ち受けている。何を悲劇とし、何を喜劇とするのか。その境界は、案外あやふやなものなのかもしれない。
映画「ちいかわ」では、双方が互いの立場や事情を根本から理解しないまま、暗い結末を暗示したまま物語が幕を閉じる。
そこに重なるのは、「進撃の巨人」が描く対立の構図であり、ガザとイスラエルをめぐる現実でもある。相手を理解できないまま恐怖が憎悪を生み、憎悪がさらなる悲劇を招く。その連鎖を、誰が断ち切れるのだろう。
竹を割ることさえ怖くなった翁の、その後の姿は、現代を生きる私たち自身の後ろ姿である。
「人魚の島のひみつ」は、現代社会への皮肉が効いた作品である。
ならば、こちらも川柳で応えてみたい。映画を観た人にだけ伝わる、もう一つの皮肉を。
煮て食べて罪は生姜で臭み消し 木立時雨
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