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 昭和44年3月、私の小学校卒業のことである。おもに高学年が使用する校舎のリニューアル(当時はそんな洒落た言い方などなかったが)があった。新校舎の竣工は卒業式の直前だった。4クラスあった6学年担任の先生たちは、せっかく新しい学び舎が完成したというのに今年度卒業する6年の児童たちが少しも使えないのは可哀そうだと思い、校長や教頭に対してあることを掛け合った。
 どんなことを掛け合ったかというと、我々6年生をせめて半日だけでも新しい教室の匂いがするところで過ごさせ、そこから卒業という巣立ちを経験させたいという要望だった。これが認められて、卒業式の前日の午後の終業時、各クラスの6年生全員が各自の机と椅子を旧校舎から新校舎の次年度新6年生が使用することになる教室へ移動させた。えっちらおっちら、今まで自分が使っていたものをわざわざこのことのために運んだのである。そして真新しい教室の雰囲気に少しだけ浸り、翌日の卒業式にその教室からみんなが巣立って行った。
 これは私だけの思いではなかったろうが、新校舎の新教室に興味を持っている者などあまりいなかったのではないか。1年間を過ごした元の教室の方に愛着がある。掲示物はすべて剥がされていたが、黒板や木枠の窓、落書きのある壁などに思い出がいっぱい滲み込んだ古い教室の方に、いつまでも記憶が残るものなのである。親の心子知らずというが、子の心も親知らずだったのではないか。担任の先生たちの心情とそこから生まれた厚意も分からない訳ではないが、新しいものに対して羨む気持ちは、大人と子供でズレがあった。そのことが振り返るたびに甦るのである。
 中学時代にはこれとは違ったことを経験した。当時の私がいた中学校には体育館がなかった。体育の授業や部活動はほとんどが校庭で行った。バレーボールなどの球技も地面の上に白線を引いてやったものだった。私は卓球部に入っていたが、1年時の練習は、毎日卓球台を収納室からわざわざ外に持ち出していた。屋外なのでピンポン玉が風に乗って飛ばされることはしょっちゅうだった。雨の降る日は廊下などで素振りだけの練習をやらされた。上級生になってようやく天気にも左右されずに部室(普通教室の広さ)で練習できるようになったのである。
 体育館がようやく完成したのは3年の3学期だったと記憶している。卒業までのわずかな期間だったが、真新しい体育館の設備を使って体育の授業のバスケットボールをやった記憶が残っている。卒業式は今まで近くにある町の公民館を借りていたが、昭和47年3月にあった私たちの卒業式から、他校と同じように体育館で挙行することが出来るようになったのである。
 ところがその体育館も数年後にあった大雪で屋根が潰れてしまい使えなくなった。呆気なく解体され、建物としての短い歴史を終えた。私の記憶では、その後体育館の建て替えはなかったのではないか。はっきりしたことは言えないが、町内の別の中学校との統合移転の計画が進んでいた。昭和56年にそれがようやく実現したようである(Wikipediaで確認)が、学校が移転するなら体育館の建て替えは経費をかけてわざわざするまでもなく、それまでは我慢するということになったのだろう。
 初めて建設された体育館の寿命は数年しかもたなかった。今から思うと、私の学年にとっては幻のような体育館である。大雪が降ったとはいえ我が町は豪雪地帯ではないので、精々10数cm程度の降雪だったろう。それで屋根が潰れてダメになるくらいなら、この体育館はそもそも欠陥のある設計だったのではないかと、勘繰りたくなることもあった。還暦を過ぎて3回の同窓会があったが、私がこの二つの話題を持ち出すとみんな記憶が飛んでいた。少し残念だった。

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