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 落語に「三方一両損」という古典落語の有名な演目がある。Wikipediaで調べると大要は以下のようになっている。

  [左官の金太郎は、三両の金が入った財布を拾い、一緒にあった書付を見て持ち主に返そうとする。財布の持ち主はすぐに大工の吉五郎だと判るが、江戸っ子である吉五郎は、もはや諦めていたものだから金は受け取らないと言い張る。しかし金太郎もまた江戸っ子であり、是が非でも吉五郎に返すと言って聞かない。互いに大金を押し付け合うという奇妙な争いは、ついに奉行所にまで持ち込まれ、名高い大岡越前(大岡忠相)が裁くこととなった。
 双方の言い分を聞いた越前は、どちらの言い分にも一理はあると認める。その上で、自らの1両を加えて4両とし、2両ずつ金太郎と吉五郎に分け与える裁定を下す。金太郎は3両拾ったのに2両しかもらえず1両損、吉五郎は3両落としたのに2両しか返ってこず1両損、そして大岡越前は裁定のため1両失ったので三方一両損として双方を納得させた。]

 江戸っ子気質を落語的に面白おかしく展開させて、聴いている方もなるほど上手いことをやるなあと感心する顚末になっている。おそらくこんな歴史的事実はなかったのだろうが、あからさまな教訓的意味合いもなく、それでいて学ぶこともあるような気がしてくる。
 拾得物の扱いというのは基本的に法的な事項であり、法律の世界は当たり前のことだが法に則っているかそうでないかの判断がすべてとなる。三者(三方)の当事者がいたとしても、それぞれに合法か違法かの沙汰が下される。その中間は有り得ない。
 民事裁判には和解という解決方法がある。これは三方一両損的な痛み分けにも似ているが、二次的な手段をもって解決しようとするもので、本来のあるべき姿はやはり判決による決着が望ましいと考えるべきだろう。和解だからといって仲直りしたのではない。揉めたことはそう簡単には元に戻らない。しかし何事も慣例化して制度に近いものになってくると、原則論が曖昧になってくる。和解という選択肢も判決と同じようにきちんとした判断だと法的に認識されてくる。
 国際的な紛争が絶えないが、西洋思想の価値観には常に二項対立的な思考が流れていて、自国に正当性があれば、相手国には非しかないことを論理的に考えたがるところがある。正当と不当以外の中間というものが存在しないような争い方をする。暫定的な解決策はあくまで暫定的で永続性を持たない。
 国際社会で大国の一方的な考え方が先鋭化していくことは、西洋思想的には自然の成り行きなのだろう。地球のどこかにはそういったやり方以外の価値観や自然観、倫理観で生きている国や民族があるはずである。それが真の多様性だと私は思うが、それらが表立って話題になることは、文化人類学的な世界以外ではあまり取り上げられない。

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