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 平成23年3月11日に起きた東日本大震災で、岩手県釜石市の3,000人近い小中学生のほぼ全員が避難して無事だったことは「釜石の奇跡」と呼ばれている。
 生徒達が迅速に対応できたのは、釜石市内の学校が数年間取り組んできた防災教育プログラムの成果によるものだった。だから地元の関係者の中には、この取り組みを賞賛されることはいいが、奇跡と呼ばれることに対してはどこか心に引っかかる人が多いという話しを聞いたことがある。
 さて、奇跡とは何かについて論じてみたい。奇跡と呼ばれる、あるいは賞賛される出来事が実は奇跡ではなかった。こういった事例は結構あるのではないか。奇跡という言葉はあまり安易に使わない方がいいだろう。
 偶発的に思えた事象をセンセーショナルに取り上げようとするから、メディアは安直に奇跡として捉えたがる。奇跡と言われていたことを深く追究していくと、奇跡でも何でもなく、因果律に基づいた必然的な出来事だった。奇跡の話題とはそんな事例ばかりである。認識のレベルにおいては、物事の真相とは大方こんなものなのだろう。うーん、そんなことを考え始めると、メディアに踊らされてはいけないとなあと改めて感じる。
 メディアは強く印象づける言葉を使いたがる。「奇跡的」という形容表現がある。「奇跡そのもの」ではなく、「奇跡のようなもの」という意味合いである。これならば、誇張表現だとしてもいくらかは許容できる。例えば「奇跡的な生還だった」などと言った場合、生還を奇跡のようなものと直喩表現している。しかし「生還は奇跡だった」と断定すると、誇張した表現になり暗喩的でもある。
 「君は薔薇のようである」と「君は薔薇である」とでは意味合いの深さと広がりがかなり違う。後者の暗喩表現では、薔薇と美女との暗示的な関係が前者以上にいろいろな想像を搔き立てる。小説などの書籍や流行歌のタイトルなどを眺めると暗喩的誇張を用いた表現でその存在をアピールしようとする意図のものを多く見かける。というより、それで受け手に興味を持たせようとしている訳である。当たり前のことだが商業主義の世界である。詩歌などの韻文の世界でも、暗喩は創作するうえで強力なツールとなる。
 人間心理として、世の中に存在するあるいは発生する未知なるものは人を必ず惹きつける。分からないことには興味を示す。好奇心を持って探究したがる。だから科学が発達していく。
 偶然などというものは世の中には存在しない。森羅万象は因果律に基づく必然的なことの連鎖だけなのだ。安易に神様などを持ち出してきて、神の導きなどと結論づけるのは、何事も認識してみようとする知的な思考法に水をさす。
 奇跡の本来の意味は宗教から来ている。それだけでも胡散臭さが漂う言葉なのである。宗教の世界では奇跡を実に重宝がる。そしていとも簡単に人間は信じ込まされて騙される。運や不運の概念も実に怪しいものである。
 蓋然などという言い方も、まだ科学的な認識する力が足りないからそう思えるだけで、その謎や疑問をさらに究めていけば、蓋然性はいずれ必然的な世界に行き着く。うーん、世の中に奇跡なんて存在しない。これが認識の世界における真理なのだろう。
 2022年5月24日に「認識における偶然と必然 」を書いたが、奇跡に関連づけて改めて論じたくなった次第である。理性も感性も奇跡も世の中には存在しない。これらは曖昧な概念なのだ。

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