「おもてなし」という言葉が実はあまり好きではない。かつての東京五輪招致のプレゼンテーションで使われて一時期流行語にもなったが、商業主義の世界であからさまにこれを用いられると興醒めする思いがある。
気くばりという言葉もだいぶ前に流行った。鈴木健二さんの書いた「気くばりのすすめ」がベストセラーになったのは昭和50年代半ばの頃である。これも私にはあまりよく響かない言葉である。気くばりは他人に奨めるものでないと考えるからである。
おもてなしの話しに戻ると、おもてなしとはあからさまなものではない。さり気なく振る舞ってさり気なく気づかせるものである。わざわざ言葉にすることは些か野暮な場合がある。もてなしに気づくかどうかはもてなす方にとっては第一義的なことではない。気づかれなくても構わない。もてなしをすること自体に意義があるのである。当然、その後の相手からのはっきりとした見返りを求めるものでもない。
こういう意識の文化は日本独特のものかもしれない。だからといって、それは日本人としてわざわざ誇るものでもなかろう。誇れば無粋というものである。これは気くばりでも同じである。
五輪招致の運動でおもてなしの言葉が派手に使われてから、それ以降のおもてなしには奥ゆかしさが感じられなくなった気がしている。
そしておもてなしがそんなにいいものなから、その弊害だってあるはずだ。鬱陶しいと感じられる場合すらあるだろう。日本人の繊細さがおもてなしの真髄みたく思われるなら、グローバル化の時代にはそういう意識は次第に廃れていくに違いない。残っていくおもてなしは、商業主義に基づく怪しいものばかりとなる。これは本来のおもてなしの範疇からは外れている。そんなものでもインバウンドの観光客は喜ぶのだろうが、商業主義には過剰なものが必ず生まれて本来のおもてなしの意味とはかけ離れたものも提供されるはずだ。いささか迷惑にも思えるサービスが増えてくるだろう。そんなおもてなしに経費をかけるなら料金を安くしてもらった方がましだと言われる事例である。
おもてなしも気くばりもあまり表に出してはいけない文化なのだと改めて言いたい。
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