川柳でも俳句でも多読多作が上達の近道、いや王道。これはよく言われることである。これに異論をはさむ者はあまりいないだろう。もちろん私もそのように考えていて、川柳指導の場では、折にふれこの言葉の大切さを説いている。
俳句では、この言葉に続いて多捨を加える人が結構いる。多読多作多捨。上達するための作法としてこの三つを唱えて提示するのはいいが、これらは同じ次元の概念ではないと私は考えている。多く読んで学び、多く詠んで作る「多読多作」はそのとおりである。これに多くを思い切って捨ててしまおうとする「多捨」を付け加えるなら、「多読」を省いて「多作多捨」だろう。多く作っても多く捨ててしまう。「多読多作」または「多作多捨」。屁理屈と言われるかもしれないが、なんでもかんでも三つを対等に並べればいいというものではない。概念の位置関係の整理は必要である。
さて俳句では多捨を勧めるが、川柳でもこれがそのまま当てはまるのか。少なくとも私の作句スタイルにおいては多捨の考え方はあまり用いない。
課題やテーマに向き合って句を詠む。苦吟する。辞書を引っ張り出したり、スマホを手にしたりして作句に向けてのヒント探しの旅に出る。なかなか見つからず行き詰まることもしばしば。いや、長いこと川柳とお付き合いしていると、行き詰まるのが恒例行事のように当たり前なことになってくる。他人の詠んだ佳句や過去の自作を思い出してしまう。でもそれに惑わされてはいけない。なんとか新たな境地を切り拓けるような作品を詠みたい。一応その気概は常に持っている。
そんなことの繰り返しで私の川柳人生は今も続いている。ようやく出来上がった自作に対して、安易に「多捨」などという言葉で篩にかけたくない。かけられたくない。その一つひとつの作品に愛おしさすら感じることもある。
俳句には吟行がある。川柳にもそういったものはあるが、私はあまり好きではない。吟行して盛り上がることは分かるが、所詮吟行という座の文芸の中だけの世界である。
吟行して多作に向けた作句モードにスイッチが入れば、作品はポンポン詠めることだろう。そして同行の仲間から批評を受けて楽しい時間を過ごす。しかし吟行の座に同席していない部外者の立場になれば、それはいささか面白味に欠けるのものであろう。これは仕方がないものだ。吟行は原則としてその場の仲間内で楽しむものだからである。
それが活字となってまとめられ後日送られてきても、吟行に参加していない外野の人間は、一体それをどうしろというのかと言いたくなるような思いに駆られるのではないか。外野だから共感できないと言い切るつもりはないが、もう終わってしまった宴会の鮮度の落ちた料理を後から出されるような心境になることは否めない。私について言えば、そういった作品集の類いはいただいてもあまり読まない。
私の川柳は内向きになって詠むタイプのものである。産みの苦しみを経て出来上がった我が子のようにも思える自作をそう簡単には捨てられない。大会や句会へ出句・投句して没になっても、どこかでリターンマッチしたり、所属柳誌の自選句欄に載せたりする。独り善がりにならないよう自戒し、他人の批評にはなるべく素直に耳を傾けているつもりだが、産んだ以上は当然の愛着が自作に注がれている。無下にはしたくない。
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