私が何につけ辛抱の足りない人間であることは、以前ここで既にカミングアウトしている。おそらくそれは発達障害的な側面もあるのだろう。
大学に入学してから、90分の授業に慣れるのが実に大変だった。高校生の時代とは違って、2倍近い時間をずっと座っていなければならない。時計の分針が一回りして、さらに180度曲がるまで倦まず弛まず講義を聴いてノートをとらなければならない。1年生の頃は、授業の途中で机の上に打ち伏し、よく居眠りしたものだった(机に涎を垂らしたこともある)。
社会人になったサラリーマン生活では、午前の勤務がいつも長く感じられる。10時を過ぎるお昼までもうひと頑張り。いつもそう思いながら、日々事務机の上にある書類やパソコンと向き合っていた。お昼を食べると、今度は夕刻の退勤までの時間が長い。4時を過ぎるともう今日もおしまいだという呑気な気持ちになる。
そんないつも真剣味の足りない人間だから、ちょくちょく時計を見る癖がある。勤務中は、掛け時計のない別室での作業などを行うと、必ずそわそわしてしまう。少しでも時針や分針の角度が変わっていくことを把握したいのにそれが出来ない。わざわざ自分の座席に戻って机上に置いていた腕時計を取って来ることもあった。
この辛抱の足りなさは老後生活を送っている今でも変わらない。趣味で続けている太極拳やコーラスのサークル活動はいつも練習を2時間程度やっているが、腕時計にはまめに目をやる。熱心に指導する講師の先生に気づかれないよう少し用心しながら腕時計をチラ見する。スマホでは絶対に時刻を確認しない。懐中時計を取り出して見るような目立つ仕草になるので、あまり身が入っていないことがバレてしまうのではないかと恐れるのである。いやそれなりに練習中は真面目になっているだが、とにかく物事に向き合う精神の持続性という面については、同じことをやっている仲間と比べると格段に劣る。そのこと(私の本性)は、あまりにバラしたくない(まっ、この段階でバレてしまったかもしれないけれど)。そこらあたりは結構小心者なのである。
一人で講演会などへよく出掛けるが、講演中、どんなにおもしろい内容でもやはり時計には目をやる。1時間半の講演なら、大体その半ばで掛け時計や腕時計を見る。上映中の映画館でも同じ。暗がり中でも何とか腕時計の針は確認できる。改めて言うが、決して退屈になってきたのではない。厭きてきた訳でもない。生まれもった性分、その上に成り立つ習慣が必ずそうさせるのである。
時間に対するそんな意識を持つことは、かつて楽しんでいた趣味のジョギングでも大して変わらない。近隣市町村で開催されるマラソン大会へはよくエントリーして走っていた。いつも10kmコースにする。スタートしてから、脳内麻薬物質が分泌されるランニングハイに気をつける。なるべくこれを抑えるようにして3~4km走る。それから何とか踏ん張って7~8kmぐらいが一番辛い(麻薬がほとんど切れて苦しくなる)。ストップウォッチを設定したスポーツ腕時計へ頻繁に目をやり、あと何分走ればいいのか計算する。わずか1、2分程度の経過でも長く感じる。まだそんな時間しか経っていないのかと、少しがっかりする。しかし、そこは何とか我慢する。残り2kmぐらいになるとゴールが近づいて来るので、ラストスパートに向けて気持ちを切り替えていく。コースを走り続けてなるべくいい記録を出そうとする場合、毎回これの繰り返しである。
実は例外もある。月に2回ほど川柳指導をしているが、これはいつもガチンコの真剣勝負的なところがある。時間を気にすることもあるが、会の途中で腕時計に目をやると、いつの間にかこんな時間になってしまった、と感じることが多い。提出された作品と向き合って没頭し、時間の感覚を忘れているのである。
飲み会などでは楽しい雰囲気のものだと短く感じるが、それほどでもない集まりだと、早く終わらないか少しじれったくなる。特に噓だか本当だか怪しいような他人の自慢話を延々と聞かされるような時は実に長く感じる。
辛抱の足りない私は、1日24時間、いつも時の流れの速い、遅いと格闘している訳である(笑)。
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