かなり曖昧な記憶で恐縮するが、確か中学生か高校生の頃(昭和40年代半ば)、テレビの民放で各局がやっている午後のワイドショーの一つを何気なく観ていたら、女性同士で結婚した夫婦を紹介する番組があった。
夫になる女性は、出生届の性別が男として提出され、爾後ずっと男子として両親に育てられた。もちろん外形は女である。親が男の子の誕生を望んでいたからそのようになったらしい。
そして男性としてそのまま成人し、その事実を知らない女性と結婚した。妻となった女性は戸惑い慌てたが、夫婦として続いている。夫婦のうち夫の方は頭髪が角刈りで小太りだった。よく見ると髭の剃り跡はなかった。体型的に女性の面影(腰回りが大きい)が確かに有るような無いような、そんな感じがした。当然のことだが夫婦間に子供はいない。
当時10代前半の私にはそのことが何とも理解できなかった。そんな育てられ方、そういう結婚が世の中にあるのかと驚いたが、事実が発覚してもなぜ夫婦関係が続いているか、それも不思議であった。レズとかゲイという言葉は一応それなりに知っていたが…。
数年後、大学生になり、オーストリアの精神分析者であるフロイトの著作を何冊も読んだ。フロイトは学説として男と女の違いを決定づけるものは何もないとどこかで述べていた記憶がある。身体の構造を観察すれば性別は一目瞭然なので、当時の私には、何でこんなことを言うのか、これもなかなか呑み込めなかった。それでも、人間は他の動物とは異なって本能が壊れていることを説いた心理学の本を読み、フロイトの言っていることも少しずつ分かるような気がしてきた。
現代は、性的マイノリティーの問題がいろいろな場面で盛んに取り上げられている。この勢いは収まることがないだろう。本能が壊れて、動物のような本能行動の形式を持たなくなった人間という存在が学術的に判ってきた。それらの知見に基づけば、これらの動きは当然の帰結だと言える。
動物における性別はあくまでも雄と雌。生殖行動はあっても人間の男女の性行為とは異なる。動物に性欲はあるのか。人間レベルの性欲はないだろう。ほとんどの動物は季節が巡って繁殖行動を起こすが、人間は季節にこだわらず1年中発情期だと言える。
しかし人間によって可愛がられるいろいろなペットが象徴するように、人間は動植物に対して感情移入、自己投影、それによる擬人化をしたがる。だから芸術が生まれる。科学的に解明された知見があっても、なお人間的なもの、人間に準じたものとして動植物を扱いたがる。
人間には性欲のみならず食欲や睡眠欲などのいろいろな本能のエネルギーが存在するが、その行動パターンはない。人それぞれによって違うのが人間行動である。そういう理解に立つと、性的マイノリティーというより、そもそも性には多様性しか存在しないのではないか。そのことを踏まえれば、いろいろなマイノリティーはあっても、マジョリティー存在しないことになるだろう。
さらに22世紀へと近づいていけば、性別における男と女の二分法は消えているかもしれない。現にネットのアンケートなどに回答する際、性別の選択肢は「男・女・その他」にカテゴライズされているケースが増えてきている。そもそも性別を問うこと自体が野暮になってくることだろう。
6年前、遠方に嫁いだ娘から初めての妊娠の連絡があり、電話で「初孫は男の子と女の子のどちらがいいか」と頻りに訊かれた。元気に産んで健康に育ってくれればどちらでもいいと本心から思っていたのでその旨を伝えたが、ある時また尋ねられ、全くの冗談で「LGBTでなければいいよ」と、つい口走ってしまった。その後の性的マイノリティーに関する社会の考え方は急速に進展していった。それほどの長い時間でもないのに今昔の感がある。実際に孫たちは多様性の価値観の中で育っていくことだろう。ターミナルに向かっている私はついていけるかどうか。あの世から社会変動を眺めている自分に気づく。
LGBTQプラスに該当する方の総数がマイノリティーではなくマジョリティーになる日がやって来るかもしれない。これは本能行動の形式が壊れた人間存在にとって自然な成り行きであろう。思い返せば、フロイトはほんとに偉い。
Loading...

















































