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 今から8年前、還暦という節目に中学校の同窓会が開かれた。40歳の時に開催して以来のことである。みんな仕事を持っていてまだ忙しそうであったが、各クラスで10名前後が出席していた。と、ここまでキーを打ちながら、この話しは2020年8月29日の「同窓会とクラス会 」で既に一度は書いていた。実は、その時に抱いた「もやっとした思い」が今も心に引き摺っているので、改めて記しておきたくなったのである。
 当日の会は大きな円卓テーブルへクラスごとに別れて着席し旧交を温めた。卒業以来35年ぶり、ほとんど記憶にない顔ぶれが並んでいるが、名前を名乗り合ううちに中学生当時のいがぐり頭やお下げ髪の面影が少しずつ甦ってきて一気に懐かしくなってくる。そうなると昔話に花が咲き、あっという間に時間が過ぎていく。そんな感じで宴会・二次会が和やかに終わり解散となったが、家に帰ってから深く思い返すことがあった。
 私たちは昭和38年4月に地元小学校へ入学し、44年3月に卒業した。そして他の小学校卒業生も1クラス分程度(40数名)混じってそのままほぼ全員が持ち上がり、同年4月に地元中学校へ入学した。47年3月に卒業し、そのほとんどが高校へ進学した。
 日本経済がいわゆる高度成長の時代だったが、戦前からの貧しさと質素さの影がなおも色濃く残っていた。法定伝染病で兄弟姉妹のいずれかが亡くなった者、貧しくて高校へ進めなかった者、片親家庭で生活が大変だった者、勉学がみんなに付いていけなくてよくからかわれていた者など、挙げてみればいろいろな生徒がいた。もちろん裕福な家柄に生まれて優秀に育った者、お騒がせな悪ガキもいる。
 さて、出席者の顔ぶれはどんなものになるだろうと予め少しは想像していた。遠方に暮らす者はなかなか参加できないだろうと考えていたが、関東の近県からは泊りがけで駆けつけてくれる者もいた。
 円卓を囲んだ私のクラス仲間について話す。いつもにニコニコしていたがあまり会話の輪には入らず口数の少なかった男子。たしか高校へは進まず、職業訓練の学校へ入ったと記憶しているが、まさか顔を出すとは思わなかった。勉学に付いていけず、体育も駄目でよく馬鹿にされていた男子。だが今ではスーツにネクタイのきちんとした身なりを見せて着席していた。性格が極めて地味で将来の職業はお手伝いさん(家政婦)になると何かで書いていた女子。相変わらず地味で大人しかったが、よく来てくれたものだと感心した。母親がいない貧しい家庭で育ち、いつも服装が汚くて男子にからかわれていた女子。その面影を全く払拭し、凛とした姿になっているのには驚いた。
 こういった人たちに対して、当時の私もからかったり馬鹿にしたりした一員であることは今更ながら素直に白状する。私は決して模範的な生徒ではなかった。悪ガキ仲間の一員と呼ばれても仕方がない。だから会って気まずさも感じた。今になって謝りたい気持ちもなくはない。でも、敢えて昔のことを蒸し返すのもどうか、とも思った。いささか複雑な心境、これが「もやっとした思い」の正体だったのである。
 同窓会ってなんだろう。偏差値の高い高校や大学を出て立派な人間になった者ばかりが集まり、名刺交換するような雰囲気のケースもあるだろう。それはそれでいい。しかし、義務教育段階の同窓会だと、粒ぞろいという訳にはいかない。刑務所に入った者とか、不幸にも何かの事故に遭ったり病気で苦労したり、果ては早世した者もいる。もちろん富裕層に入った者、エリートになった者もいる。まさに人生いろいろ。それが私にとっての同窓の概念、同窓会の原風景なのかもしれない。
 先ほど述べた服装がいつも汚かった女子は、あまり幸福とは言えない境遇を卒業後に跳ね返して頑張ったのか、幸せな結婚をしたようである。そういう姿をみんなに見せたくて泊りがけでわざわざやって来た。再び会が催されるようなことがあるなら、遠方に住んでいるが何度でも必ず参加したい、と幹事には話していたという。
 世間には同窓会に出たがらないタイプの人間も多いと思うが、足を運べば案外それなりに楽しいものである。金持ちになったり偉くなったり、そういう話しにいつまでも羨望の目を向け、変なわだかまりを抱えていてはいい老後を送れないのではないか。観念して素直になった方がいい。劣等感と自意識過剰はいい加減卒業すべきものであろう。

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