このブログも書き始めて丸4年近くになる。ネタ探しに日々苦労しているが、何とか自分なりのペースで今まで続けてこられた。当初から、パソコンに向き合って入力作業をしながら気にかけていることがある。自分の文体のことである。
著名作家ではあるまいし、私の書き綴る文章に文体というほどのものが内在しているのか、周りから揶揄されそうであるが、とりあえず聞いていただきたい。ずっと意識していることである。
私は学生時代に西洋哲学を専攻して学んだ。英語でもフランス語でもドイツ語でも洋書の古典を原書で読むほどの力はあまりなかったが、古典的名著といわれるものは翻訳書で何冊も読んだ。そして、これらに係る欧米の研究書を読むのもほとんどが翻訳されたものだった。
翻訳物には悪訳とそうでないものがある。悪訳の類では、翻訳者が本当に原文を理解しながら訳しているのかと疑いたくなるような稚拙な訳文に出合うことが何度もあった。大学の先生が一生懸命苦労して翻訳の作業をしたことは分かるが、お金を払って本を買った身にとって、いくら読み返してもちんぷんかんぷんなものだったら、何のメリットもない。途中で放り投げて読み進めるのを断念した本は何冊にも及ぶ。
教科書や参考書になっている翻訳書と格闘するようにして何とか読み始める。文と文のつながり方はどうなっているのか、文中に出てきた代名詞はどれを指しているのか、丹念に確認しながら読み込もうと頑張る。一つの段落やわずかな文字数の文と格闘する。しかし、やはり何とも理解できない。
哲学書は原書から読むのが一番いい、などと気安くアドバイスされたこともあるが、語学力のない私にとっては嫌味にしか聞こえない。それに、日本語訳で分かりづらいものが原書ではスムーズに理解できるなんてことが有り得るのか。翻訳書は単に誤訳の箇所が多いから分かりづらいのだろう。そうでなければ日本語訳の文章でも充分通じるのではないか。もちろん名訳と呼ばれるものもたくさんある。
まっ、昔のことを思い出していろいろ書いてきたが、若き青春時代の哲学書の分かりづらさが相当堪えているので、自分がものを書くようなことがあった場合は、読み手に対してなるべく分かりやすく書いてやろう、それもしつこいくらいにすいすい読めるようにしたいという意識(願望)を持ち続けていたのである。
その意識がブログ連載の当初から芽生えていて、結果的に今皆さんが読んでいるような文体になったという次第である。私の文体は、学生時代の読書体験で苦労したその反動によって成り立っている。
さらに言えば、私は文体といえども話し言葉のリズムを大切にしたいと考えている。耳から入る場合の文章の流れをいつも意識している。だから、推敲の際には心の中で必ず音読している。書き言葉で晦渋な文章を書きたがる作家がいるが、私はあまり好きではない。きちんと理解してもらうためには、平易に分かりやすく文章を練る方がかえって難しいのではないか。ペンで書き進めるうえで難解さに自己陶酔したくない。自己陶酔は所詮自己満足。相手にどこまで丁寧に意思が伝わるか、そんなことにあまり思いが及ばないのではないか。そもそも人類の歴史は、文字が生まれる前の時代の方が遥かに長い。目より耳と口が言語によるコミュニケーションの原点である。書いて読む習慣などは比較的新しいものなのだ。
そんな考え方でなるべく分かりやすくしようと書いているので、私の文章に諄さを感じる人は多いかもしれない。しかしこの諄い言い回しは死ぬまで治らないだろう。
川柳という韻文は省略の文芸である。すべてを言い尽くさない。これまたその反動で私の散文は諄くなっているのかもしれない。五七五で言葉を節約するように詠んで、散文では無駄遣いするように冗長な言い回しになる。
文体を変えろと言われたら、それはもう書くなということと同じである。私の文体は私自身を表している。きちっと私のことを分かってもらうためには、独り善がりといわれようと諄い文体は譲れない。言い忘れたが、何を隠そう私という人間存在がそもそも諄いところがある。うーん、これは失礼しました。
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