SNSが浸透してきて「内心の自由」の取扱いの難しさが、改めて浮き彫りにされていると思う。
何事もプライベートに思うだけ、考えるだけ、感じるだけ、想像(妄想)するだけ、信じる(信じ込む)だけなら、個人の自由は完全に保障されている。しかし、法的・道徳的に問題を孕んでいることについては、それを言動に移す、端的に言えば意思表示する、表現する、伝達することは、たとえSNSへの匿名(仮名)のコメントですら、顰蹙を買う、憚れる、あるいはやってはいけない不適切なことであるとされ、一応タテマエとしてこれは暗黙の了解事項のようになっている。要するに他人に迷惑が及ぶ発言(発信)はやってはいけないタブーなのであって、言い過ぎてはいけない、度を越してはいけないのである。
しかし人間の心理はそんな単純なものではない。いつでも節度を守って発言と行動している訳でもない。自分の心の中で収めきれる感情や思考は案外少ないのではないか。どうしても思いっきり吐き出したがる方が多い。吐き出さざるを得ない。
例えば「ここだけの秘密なんだけど…」などと前置きしながら、他人に話してはいけないことを暴露したがるのが人間の性(さが)というものである。そうすることで、心の浄化作用が働き、精神のバランス保持が機能するというものである。他愛もない雑談の中でポロっと出てしまいそうになるホンネをどう扱って制御したらいいのか。ホンネはいつか必ず吐かれようとするものだから、考えてみるとその扱いは意外と難しい。
そもそも他人に迷惑となる、他人を不快にさせる言動というのは主観的かつ相対的なものである。やってはいけない、言ってはいけない明確なルールを決めようとしたら、その約束事は果てしもなく細分化されて万人の合意形成に至ることは決してないだろう。
内輪の場面なら、偏見や差別が含まれる低俗で悪趣味な会話をしても、それは内心の自由に準ずるようなもので誰の迷惑にもならない。だから構わないではないか。もしそれが漏れてもすべては自己責任の世界だろう。そう言われるかもしれないが、SNSが浸透する世の中では、プライベート(私的)とパブリック(公的)の線引きすら怪しくなってきている。発言する側に自己責任がある、などとよく言われるが、この言葉も実に口当たりのいいものであろう。これをすぐに持ち出すことは重宝だが、実際にはその概念(定義づけ)も用い方もかなり曖昧で揺らぐものとなる。
タレントや文化人と称される有名人の炎上発言も、炎上する中身が問題だからというより、その存在が社会的影響力を有しているこそのあるまじき言動ととられ、「もっと言葉を慎んだ方がいい」と非難される。本人はプライベートな発言と思い込んでいても、完全にパブリックなこととして扱われてしまう。前後の文脈から切り離されて、言葉尻だけをうまく捉えられてしまう哀れな場面を何度も目撃してしまう。軽率だったかもしれないが非難するまでのことではないのではないか。それではあまりにも可哀想ではないか。ホンネを吐いてどこがいけないの? そういう感想を抱くこともある。有名税などということで済まされない悲惨なケースもある。結果的に当人は諦めるほかない。気の毒なことである。
ICT(情報通信技術)が進展していくと、個人的に思ったことでも一旦伝わってしまえばとんでもない、取り返しのつかない事態を巻き起こしかねない。政治家のオフレコ失言がその典型であろう。取り消しても、その職を辞してもその言葉は残る。どんなに弁明しても一度口から出てしまった以上、世間とメディアは納得しない、許してくれない。こういう事例を何度も見せつけられると、言論の自由が保障されながらも厳しい世の中であることを改めて実感する。
情報発信に溢れて世の中は少しずつ世知辛くなっていく。そして一億総発信の自由化がかえって国民を生きづらくさせる。無用な論争も巻き起こす。それでネット社会の資本主義が維持され進展していく。義務教育で習った道徳の授業みたいな考え方しか発言できない、本心も言えずにタテマエだけがまかり通る、そんな味も素っ気もない言論空間は、自由主義に基づいた社会だというのにどこかおかしい。
Loading...















































