Loading...Loading...

 私の父はほとんど酒が飲めなかった。それでも電力会社の技術社員として毎日働き、週1回の宿直もこなしていたので、疲れをとるために食前の晩酌として日本酒を1合の約半分、5勺(せき)くらいをコップ酒で口に入れていた。それくらいの分量だと、毎日飲んでも一升瓶が空っぽになるのにひと月近くかかっただろうか。近くの酒屋へ空き瓶を抱えて父が飲む二級酒を買いに行くのが偶に母から頼まれる私の役目、お遣いだった。細かいことを言うと、当時の二級酒の一升瓶は青っぽい透明のものだった。茶色の瓶の一級酒と差別化されていた。
 御中元や御歳暮で瓶ビールを1ダースいただくことがあった。大瓶1本を開けると、父はとても全部は飲めきれない。持て余して残ったビールの瓶はもう一度王冠の栓をして冷蔵庫へ入れていた。当然、時間が経てば気の抜けたものになりまずくて飲めなくなっている。どう処分していたのだろう。余った何本ものビールは誰かに上げていたのか。今となってはこれらは不明である。
 その代わり甘いものは何でも好きだった。饅頭とか羊羹とかに目がなかった。洋菓子やケーキもよく食べた。
 定年になって退職した日の夜、送別会から酔っ払って饒舌になった父が帰って来た。そんな姿を見たのは初めである。定年を迎えて感慨深いものがあり、飲めない酒を飲み過ぎたのか。同僚に脇を抱えられていた光景に、二十代半ばだった私は面食らったように驚いた。
 少量の晩酌は定年後、仕事をしなくなるとやらなくなった。毎日の晩酌は私だけがビールや燗酒を飲んでいた。父は茶の間でテレビを観ながらちびりちびりと飲んでいる私を眺めても何にも言わなかった。
 タバコを吸っていたが、81歳で死ぬまで止められなかった。家族が止めさせようと、買ってきたタバコを隠したりしても駄目だった。結局は家族も諦めた。
 親は酒があまり飲めない、息子はよく飲む方。そういう親子関係だった。この逆のパターンもあるだろう。親子ともいける口という場合も勿論ある。私の場合、父親と二人で飲み屋へ行くという経験は最後まで実現しなかった。酌み交わしながら本音をしんみりと話すようなことがなかった。今更ながらの心残りでもある。
 最後に酒やタバコの話題とは別のことを書いておく。父が80歳近くになっていた頃、さすが凄いと思うことが一つあった。リーマンショック前の頃のことだと記憶しているが、父が家電量販店で地デジ対応の液晶テレビを買ってきた。株の配当がよかったので嬉しかったのだろう。それで買い換えを決めたようだった。
 古いアナログのブラウン管タイプのテレビは処分され、アンテナも取り替えることになった。アンテナ交換はお店に頼むと費用としていくらか(1~2万円?)を要した。それを聞いて、そんなに金がかかるなら自分で古いアンテナの撤去と新しいものの据付けとやると言い出した。
 亡くなる数年前で、父の体は既にかなり痩せていた。2階の屋根まで登って本当にアンテナを交換できるのか、内心私は心配だった。転落して怪我などされたら大変である。かなり不安に思っていたが、平日仕事から帰ってくると、きちんとアンテナは交換されていて、新型のテレビはハイビジョンの高画質でしっかり映っていた。
 さすが電力会社に40年も勤めていた技術者、おそらく何千本ものの電柱に上ったことだろう。私に自慢する素振りも見せず、飄々と事も無げにアンテナ交換の作業をこなして茶の間の鮮明な画面に見入っていたのである。今更ながら大したものだと感心した次第である。その後さらに少しずつ瘦せ衰えて、3年後に亡くなった。

ポストする LINEで送る ブックマーク
❤️ ひざポン
ありがとう!

気軽にポチっと
どうぞ(無記名)

コメントはこちらから

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

Post Navigation

Copyright All rights reserved. SHINYOKAN PUBLISHING illustration by Nakaoka.K