Loading...Loading...

 昨年、母が94歳で亡くなった際に遺影の写真をどうするか、お通夜や告別式前に葬儀屋さんの担当の方といろいろ話し合った。実は、心の準備として母の顔写真のことは万一の際に用意しておかねばと頭の片隅には以前からずっとあったのである。母親に直接相談したことはなかった。いつか来るその日のために改まって撮影するようなことは嫌がるタイプだったからである。
 あまり物事にこだわらない性格の私でも一つだけ例外がある。自分の遺影でもそうなのだが、写真はなるべの亡くなった日に近いものを使いたいということである。例えば90歳ぐらいで亡くなった場合に、70歳頃の若い写真を遺影に使うというケースがあるが、仮に本人の遺志だとしても私はあまり好きではない。可能ならば死の直前、最後まで生きてきた証として直近のものが望ましいのではないかと、兼ねがね思っていた。
 お通夜の前日までに、iPADの共有アルバムを捲って母の遺影になる適当な画像を探し始めた。孫(母にとっては曾孫)を連れて娘夫婦が関西からわざわざ毎年泊りがけで来てくれているのだが、栃木を離れる最終日に玄関先でスマホの集合写真をよく撮っていた。昨年の年末年始に来た際の写真は、どれも遺影として使うにはイマイチ相応しいものではなかった。遡ってさらに捲ってみると、4年前の91歳の時の少し微笑んだ写真が使えると判断した。美容院に行っていたので髪も調っていた。私としては、94歳で亡くなったのだから94歳の時の写真を望んでいたが、91歳の時のもので妥協して素直に自分のこだわりを諦めた次第である。
 デジタル画像は凄いと思った。私や曾孫と並んだ集合写真から切り取った母の顔の部分を拡大して遺影に加工しもらっても、画質がさほど粗くならない。その技術の素晴らしさに感心した。
 以前、文芸仲間が急死した際に、葬儀で遺影を眺めてみると、だいぶ古いスナップ写真を拡大コピーして使ったみたいで画質がかなり粗く、私がいつも会っていた当人とは何か違和感があるような感じを持ってしまった経験があった。
 前田雀郎の句に「死に顔をいつか見られる日を思い」というのがある。遺影と死に顔は別のものだが、川柳をやるくらいなら、自分の死に顔を想像するくらいの冷ややかさが必要だろう。そしてその死に顔に近い直前の遺影を眺めて偲んでもらいたいという気持ちもあっていいのではないか。川柳を詠み続けてきた人間がどのような最期を遂げたのか。ついに人生を全うした飾り気のない正真正銘の素直な姿を見て欲しい。少なくとも私はそう常々思っている。

ポストする LINEで送る ブックマーク
❤️ ひざポン
ありがとう!

気軽にポチっと
どうぞ(無記名)

コメントはこちらから

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

Post Navigation

Copyright All rights reserved. SHINYOKAN PUBLISHING illustration by Nakaoka.K