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 私は、有名人が書く回顧録の類をあまり信用していないところがある。有名人とは、政治家、実業家、芸能人、学者、専門家、芸術家、スポーツ選手など、その範囲は多岐にわたるが、一番の曲者は政治家だろうか。政治家の回顧録には自分に都合がいいところだけをピックアップして載せているような展開が多いからである。虫がよすぎる文章が続くと辟易してくる。反省という言葉を知らないのかと言いたくなることもある。
 同時代を生きてきた者として、それはその当時の言動とは明らかに違うだろう!と思わずツッコミを入れたくなる文章に出遭ってしまうと興覚めする。歴史の証言者は当事者だけでなく、それを冷静に眺めていた第三者という国民の存在もいる。しかしメディアの報道の裏側にある目立たない真実は風化されやすい。オフィシャルなものだけが長く語り継がれることとなる。
 年齢的に私と近い政治家が自分を振り返って半生などを語り始める時、私は自分なりに記憶していることと照らし合わせてその話しをなるべく冷静に聴くようにしている。そうしないと、いかにも誠実らしい言葉を紡ぎ出しているように見えても、実はもっともらしく美談に仕立て上げたものばかりを聴かされかねないからである。美談には出来ないところ、いや物凄く醜悪な自己の精神的内面構造について勇気を振り絞って抉り出してくれた部分の記述がないと、どうしても真実味や説得力に欠ける。そこらあたりのバランス感覚も欲しい。
 明治や大正、さらに昭和半ば頃までの政治家の生涯には、それなりのこぼれ話しも残っているとは言え、掘り下げればもっと深いところに忸怩たる思いが隠されていたのではないか。当時生きて関わっていた周囲の人間だったらきっと観察していたはずであろうことが記録としてほとんど残されず、もっともらしいものばかりが伝説的に語り継がれる。あまりにも一面的に記述する傾向が強いことを感じてしまう。
 8月6日に「偉人伝・伝記文学 | 三上博史ブログ (shinyokan.jp)」という文章を書いたが、偉人伝も回顧録もほぼ同じ扱いにしていい。前者は、非業の死を遂げたような場合には広く同情されて、俄か仕立ての怪しく麗しい伝説のオンパレードとなり、不都合・不利な事実は忽然と消えてしまうことがとにかく厄介である。
 オーラルヒストリーという研究分野があるが、オーラルとは口が自分に都合よく滑ってしまうことが多々あるから、眉に唾して話しを聴かないといけない。しかしもっともらしく語る言葉に対して、冷静かつ慎重に、さらに警戒心も持ちながら耳を傾けることはなかなか難しい。
 信用していい類のものとしては、公表することを全く前提にしていない日記がそれに該当するだろうか。真実はそういうところに宿っているのである。人に見せる、人に見られる文章はどうしても人の目を意識して噓くさくなっている。
 話半分という言い方があるが、すべての話しには話半分的なところがある。極端に言うと、語る傍から物事は虚構の世界へ入っていく。歴史とはそんなものの積み重ね的な要素を必然的に内包せざるを得ない。
 情報化社会となって、断片的であっても何かの情報がどこかに眠り続け、ある時それが目を覚ますことが増えてきている。ネットやSNSが普及して以降のデジタル化された歴史とはそういったものを含めて成り立っていることを改めて感じ取りたい。
 歴史は呼吸している文脈だと思う。呼吸が感じられないような、綺麗事だけの薄っぺらで教科書的な記述には用心しなければならない。何事もデジタル時代の歴史認識とはそういうものだとしみじみ思う。

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