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 大した読書遍歴ではないが、小学校の高学年の頃、学校の図書室で盛んに偉人伝・伝記文学と呼ばれるものを借りて読んでいた記憶が残っている。
 シリーズとして書棚のコーナーにあり、日本人なら近代の政治家や実業家、幕末の志士、西洋人ならキリストやマホメットなどの宗教関係やエジソンなどの発明家など、歴史に残るいろいろな偉人の名前が背表紙に書かれた本がずらりと並べられていた記憶がある。
 なぜそのようなものばかりをしゃかりきになって読んでいたのだろうか。今更ながら考えたことがある。
 国語の学習単元として、各学年ごとにそういったものを必ず読んで学ばせていたことを思い出した。例えば、野口英世の伝記を国語の授業で習った方は多いのではないか。そういった学習内容に基づいて、担任の先生から、偉人伝を読むよう指導されたのだろう。
 自分の将来に対して大きな夢を持たせるために、それらを読ませて鼓舞する。昭和30年~40年代、何事もお国のためにという戦前の軍国主義教育の影響がまだ国語の教科書や図書室の書棚に残っていたとも言えるだろうか。古い道徳的な観点からも推奨されていたのだろう。
 今になって振り返ってみると、それらの偉人伝はかなり脚色されたものだった。種痘法を開発したイギリスのジェンナーがまず我が子を実験台にしたなどという話しは真実でなかった。そういったことは今ではよく知られているが、日本の野口英世の生涯も、渡辺淳一の「遠き落日」によれば、国語の教科書や偉人伝の本に載っているようなこととはかなり異なったストーリーがあったことが判る。美談が教訓的に作られたものであること、美談だけではない裏話や逸話があることは、その頃の小学生には知らされていない。教えないようにしていた。事実がどうであれ、感動的な場面だけを強調することに伝記を教える意義があったのである。
 偉人伝・伝記文学を読ませることの教育的な効果は、戦後少しずつ薄れていった。今のネット社会では美化されたことの噓くささはすぐに暴かれてしまう。そして興醒めさせられて終わりとなる。情報化社会の強さと怖さを同時に見せつけられる。
 今でも小学校の図書室には偉人伝・伝記文学がずらりと並んでいるのだろうか。教育においても多様性ということが盛んに叫ばれてくると、こういったものは次第に見向きもされなくなってくるだろうか。古い世代には少し淋しい気もするが…。

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