Loading...Loading...

 日本のイルカ漁が欧米からの非難の的になるニュースが偶に出てくる。
 かつてあるアメリカの有名な女性歌手が、イルカを殺して食べることは絶対に反対だと唱えていた。日本のテレビのニュース番組で、キャスターがその歌手へインタビューした際に「欧米人は昔から牛や豚の肉を食べているのではないか。これについてはどう思うか」と質問をした。これに対して、その歌手はきっぱりと「イルカは賢い動物だ。牛や豚は人間に食べられるために生まれてきたのだ。全然違う」と反論した。
 万物は創造主である神様が造ったのだというキリスト教の世界観に基づいての発言だったのだろう。日本語には「殺生」や「草木国土悉皆成仏」という仏教の言葉があるが、こういった考え方とは全く違う生命観・倫理観である。
 物事について何か是非の判断する場合、欧米人はまずきちんと主観(自分)を軸にして、それからそれ以外の客観(自分以外の対象)と向き合って、それについて考えようとする姿勢が出来上がっている。だから、日本語のように主語の省略された会話や文章はほとんどない。まず自分ありきの世界観とも言える。
 主体と客体をどこで線引きするか、その関係性について深く考察していくと、統一的なな考え方に辿り着くことは出来ない。グローバルに世界各地を歩き回って調べていけば、ローカルな考え方がいくつもあるということが分かるだけだろう。線引きは非常に難しい。キリスト教的生命観では、少なくとも人間とそれ以外の生き物とはきちんと峻別されていると、そのことだけは言えるだろうか。
 さて、川柳には写生句(客観句)というカテゴリーがある。江戸の古川柳にはこれが多い。しかし写生するというのは、主観である作者の感情が客観である対象に移入されて初めて句が詠めるものである。主観と客観のボーダーを跨いでこそ写生の句が生まれる訳である。写生句には、実は主観的なものが対象に投影され、更に内包されているのである。主観句と客観句は全く別の代物ではない。主観句と客観句の違いは主観性の濃淡によるもので、それぞれの関係は相通じるところがあるものなのである。

  鶏の何か言いたい足づかい
  稲妻の崩れようにも出来不出来
 この二つの江戸古川柳(誹風柳多留初篇)の句は、写生句としてあまりにも有名であるが、前者は鶏を擬人化して上手く写生している。後者はこれも稲妻を擬人化しているともとれるが、稲妻の動きに対して穿ちを効かせて写生している。いずれにしろ、作者の観察力は句を詠もうとする対象の中へ深く入り込み、感情移入がなされている。主観と客観が完全に切り離されていたら、こういう作句の着眼点は生まれようがない。日本的な世界観の雰囲気の中で詠まれたことが分かる。
  芒の穂考えながら老いてくる   博史
 この拙句は、最初に「芒の穂」を持ち出して来て、首が項垂れた姿を写生している。そして下五の最後「老いてくる」で、実は作者自身が投影された心象句(主観句)であることが分かってくる。客観的な描写から始まって主観的な心象風景へと場面が転換されていく。
 川柳入門書などでは、川柳には主観句と客観句がある、などと教科書的に説明されることが多いが、事程左様に主観句・客観句の概念でカテゴライズすることが出来る訳ではない。大袈裟に言えば、主客を峻別するキリスト教的な世界観とは異なった考え方が川柳の底には流れている。だから川柳という文芸が日本に起こったのだ、とも言えるだろうか。

ポストする LINEで送る ブックマーク
❤️ ひざポン
ありがとう!

気軽にポチっと
どうぞ(無記名)

コメントはこちらから

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

Post Navigation

Copyright All rights reserved. SHINYOKAN PUBLISHING illustration by Nakaoka.K