鶏が先か卵が先かという議論がある。洗濯という作業もそれに似た印象を持ってしまう。
今の世の中は潔癖社会、みんな不潔恐怖症になっている。いやそうだからかつて蔓延したような食中毒とか感染症が大流行しないのだ、未然にそういうことも防いでいるのだと反論されてしまうだろうが、私は洗濯という作業には強迫観念が混じっていると考えている。
洗濯するとは、一般的な考え方や社会通念では、汚れた衣類等を綺麗に洗うことを意味しているが、勿論それだけではない。一度使用した物は、たとえそれが他人ではなく自分がそうしたものであっても汚いと認識・判断されて洗濯という作業へ回される訳である。衣類なら洗濯機があり更に乾燥機もあるから、かつての手洗い時代に比べて楽であり、苦労するようなことは何もない。苦労するようなことがないから安直に洗濯へ回す。
昭和時代を思い起こしてみる。サラリーマンの夫が毎日着る一張羅のスーツ(背広と言っていた)に何かの染みや汚れが付着すると妻がベンジンなどでそれらを落としていた。今はそういうことをする人はあまりいない。一か所でも染みが出来ると、さっさとクリーニングへ出してしまう。経済的に日本人の暮らしがよくなり、クリーニング店も機械化や価格競争で安くなってきた。そんなこんなの事情でベンジンなどは使われなくなってしまったのである。そういう動きが進展していって、大して汚れが付着していなくてもスーツは安易に安価なクリーニングへ回される。
これは他の衣類や寝具類でも当てはまる。今の人間はなぜ洗濯するのか。それは汚れているからではなく、一度袖を通すとそれは使用したことになるから、そこに洗濯機・乾燥機があるから、あちこちに安いクリーニング店やその取次店が増えてきたから、そういったことが複合的に重なって洗濯される状況、洗濯社会になるのである。洗濯物の気持ちになれば、俺はそんなに汚くないぞ!何でそう簡単に洗濯機のドラムへと放り込まれなければならないのだ!と憤慨しているのかもしれない。
テレビ東京の「開運!なんでも探偵団」をいつも見ているが、プロスポーツの有名選手の使用したユニフォームや用具が鑑定されて高値を付けられる。その際、持ち主がそれを着用・使用したかの申告が大事なポイントになっている。例えば一度でも腕を袖に通して着てしまったら値が下がるらしい。そうした行為をしたかどうかの判定は難しいと思うが、マニアックに評価される。ちなみにそれを洗濯などしたら完全にアウト、一気に評価額は下がる。
Facebookのお友達の一人が毎日こまめに投稿していて、ある日の投稿で手洗いで衣類を洗濯していることを書いていた。今時そんな人がいるのかとびっくりしてコメントを入れてみると、一人暮らしなので何の苦労もない、全然平気ですと事も無げに返信してきた。
私は凄いと驚き、いずれ一人暮らしになるであろうその時、洗濯機は処分してこの人に見習おうかと思った。洗濯のための洗濯は少しずつ卒業して必要なものだけを必要なだけ洗濯しようと考え直したのである。そうなったら、1週間に一、二度の洗濯でいいのではないか、それくらいのことなら動力源を使わず自分の体を使った方が健康にいいかな、とも思っている。
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自慢でも言いふらすことでもないけど、我が家(夫と二人暮らし)は洗濯は基本週1回です(ちなみに洗濯機は二層式です)。
下着(いわゆるパンツですな)は毎日替えるけど、あとは適当に、です。もちろん季節やその日の行動にもよりますが……。
夫(博史さんより少しだけ年上)なんか、服のにおいをかいで「まだ大丈夫」なんて言っていますよ。
ずいぶん前のことだけど、10歳ほど年上の女性が「姑が一度着た服をまた着るのが嫌だ。一度脱いだ服をまた着るなんて、気持ち悪い」と言われるので、びっくりしたことがありました。
なるほど、「一度着た」イコール「一度使った=手を加えて再生させるべきものになった」という感覚なんですね。
久美子さん、ありがとうございます。
洗濯作業というのは、洗濯機や乾燥機を使う度に、衣類の生地を傷めているのは確かですよね。
衣類が擦り切れる原因の半分は、洗濯にあると思うんですよね。