自分を謙遜して「不肖私がやらせていただきます」などと言ったりする。「肖」は「あやか・る」と読むが、この場合だと「肖らない」ということになる。国語辞書を調べると、何に肖らないかが分かる。答えは親、特に父親である。つまり、謙遜表現で使う場合の「不肖」には、「立派だった父親ほどではない私がやらせていただきます」という意味合いが元々込められていたということである。
昔と言えば、父親は立派でその親の元で厳しく育てられるという規範があったのだろう。今時そんなことを持ち出したら子供に毛嫌いされるかもしれない。自分の父親に肖りたいと殊勝に考える子供は少ない。父親の権威などというものはとうに廃れてどうでもいいものに成り下がってしまったのが今の世の中である。
言葉の本来の意味から考えれば、「不肖の息子」や「不肖の娘」という言い回しがもっとも妥当な「不肖の」使い方ということになり、「不肖の父親」などと言ったら、本来の使い方をあべこべにした誤用と指摘されるだろうか。しかしこれも理屈を言えば、「不肖の父親」のそのまた父親に肖っていないということだと解釈することも可能となるだろうか。まっ、話しは大変ややこしくはなってくるが…。
現在の肖る対象は家族外の人間である。だから「親ガチャ」なる流行語も生まれた。家族そのものの意義が問われ、家族の概念が崩壊の危機に瀕していると言ったら大袈裟か。さきほど「規範」という言葉を持ち出してきたが、思えばこの言葉も色褪せていく概念であろう。社会の規範を打ち破って生まれるものの価値が尊重される時代だからである。
Loading...
















































