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 世の中の大方は「ら抜き言葉」で会話して問題なく通じているのに、一市民の言葉としてテレビで字幕が流されると、必ずと言っていいほどわざわざご丁寧に「ら入り言葉」に訂正されている。NHK、民放を問わず放送局の約束事でもあるかのようにそうなっている。それなのに、地位の高い人、高貴な方の発言の中に「ら抜き」があった場合、発音どおり忠実に「ら」を抜いたまま表記しているのを私は何度も目撃してしまった。テレビ局も人を見て判断するのかと、少しカチンときた。
 テレビニュースを観ていて、街頭インタビューなどの音声はある意味で軽いものであるから、放送する側のそのような表記上の訂正に一々目くじらを立てる人はあまりいないだろうが、執拗に直されている実態とのギャップについて、日本語の分かる外国人などはどのように感じているのだろうか。大いに気にところである。このようなことは英語圏でもあるのか。おそらくこれに似た例などないのではないか。
 俗語的な言い回し(新語・流行語を含めて)が普及して一般化すること、また文法においても用言の活用などが単純化した方向へ進む傾向があることは、生き物のように変転していく言語文化にとっては当たり前であり、これは不可逆的でもある。元に戻らないことを嘆いて、古きものを恋しがっていても何も始まらない。
 流行りの言葉が個人的には耳障り、不快であるという感情を持っていても、時が経つにつれて誰でも口にするようになり頻々に耳に入れば、案外素直に馴れてくるもので依怙地になる方が疲れるというものである。みんなが使い出せば決して不自然ではなくなる訳である。言語表現の価値は相対的なものであるということに早く気づくべきなのかもしれない。
 「ら抜き言葉」は文法的におかしいという指摘(動詞の活用との関係)も、もっともらしい答えのようであるが、日本人は常に文法を意識して喋ったり書いたりしている訳ではない。文法を逸脱した話し言葉や書き言葉に対して、何と詩的であることかと思わず感じ入ってしまう場合がある。言語表現に対する自分の感覚の新たな発見であると改めて気づくのである。
 ある程度広まった言い回しに対して、文法的あるいは意味的に誤りであると指摘することは、後付けの理屈なのである。言葉の歴史は広まったものの方が勝ち、淘汰されたものが負けの世界が続いてきたと言えるからである。
 「ら抜き言葉」に対するメディアのしぶといこだわりには、世代間のギャップということも問題としてあるのではないか。また言葉の規範を信じ常に正しい言葉を求めたがる保守的でお堅い人間の権威主義的な影もちらつく。
 もしも「ら抜き言葉」が話し言葉と書き言葉の両方の世界において100%の市民権を得るような時代が来たら、日本人の言語感覚のみならず倫理観・価値観までもが大いに変容しているかもしれない。しかし現実には、認めるかどうかのせめぎ合いは依然として果てしなく続くことだろう。
 ここまで捩じれてきている「ら抜き言葉」問題は極めて愛憎的にも思える。世代間の愛憎的なしぶとさを内包しているのである。だから一向に進展しない。学校の国語教育はそもそも愛憎的なものを孕んでいることに改めて気がつく。

  落ち着いて寝れそうもない金閣寺   博史

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