コロナ騒ぎで昨年から毎日たくさんの報道がなされているが、その感染症の発症のメカニズムについて、最近の私は「量から質への転換」という概念をいつも連想してしまうのである。
感染原因の一つである飛沫に関して言えば、その飛び方や拡散の仕方がいろいろと話題になったりするが、飛沫そのものやその飛び方に対する考察がどんなに進んでいっても、ある人間がある時コロナの感染症になるという発症のスイッチのメカニズムはなかなか解明されていない。感染経路の不明な感染者の数があまりに多いという実態を踏まえると、コロナの感染症には「コロナに感染する人間はコロナに必ず感染する」、「コロナに感染しない人間はコロナに必ず感染しない」といった同義語反復的な限界があることは否めない。ビートルズの「レットイットビー(あるがままに)」を思い出しそうになってしまう。怪しい材料が入っていた仕出し弁当を食べて、ほとんどの人がサルモネラ菌の食中毒で下痢を起こした、というような明快さ、歯切れの良さがない。
新型コロナウイルスに触れてそれに感染する危険性というのは程度の問題、つまり量の世界であると言える。実際に感染してしまうという病気への移行・進行は、飛沫量の質的転換がなされたということになる(もちろん個々人の健康状態による違いもあるが)。この質的転換のメカニズムは、今の医学ではどうも永遠の謎のようである。感染者の感染経路について、そのすべてを解明することが出来ないのもここらあたりが関係しているのだろう。
風邪をひかないようにするため、好き嫌いなくものを食べる、よく睡眠をとる、こういった教訓的なことを子供の頃に教え込まれたが、このような心がけはコロナには通用しないのだろうか。コロナに対して神経質になっている方が、見事に(これは些か失礼な言い方だが)感染している例を目にすると、人間の道徳観念を揶揄するようなところがコロナにはある。
3密やソーシャルディスタンスという概念にどこまでの永続性があるのだろうか。「新しい日常」の生活は、道徳的にはそう簡単に質的転換がなされて実現できるようなものではない。
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