(写真はイメージです)
阪井久良岐の世界
~近代川柳への扉を開いた「川柳中興の祖」~
これまで川柳六大家について紹介してきました。川上三太郎、岸本水府、麻生路郎、村田周魚、前田雀郎、椙元紋太。彼らが近代川柳を発展させ、今日の川柳へつながる大きな流れをつくったことは、これまでの記事でご紹介してきた通りです。しかし、その六大家が登場する少し前、明治の時代に「川柳をもう一度、文学として蘇らせよう」と立ち上がった人物がいました。それが「阪井久良岐(さかい・くらき/久良伎とも表記)」です。井上剣花坊と並んで近代川柳革新運動を推進した久良岐は、「川柳中興の祖」とも称される、近代川柳史を語るうえで欠かすことのできない人物です。
■ 阪井久良岐とは
阪井久良岐は1869(明治2)年、横浜に生まれました。本名は阪井辨(わかち)国学者・渡辺重石丸に学び、初めは和歌の世界で活動しましたが、やがて川柳の研究と革新へと向かっていきます。明治30年代から新聞を舞台に川柳活動を展開し、『川柳梗概』を刊行。さらに川柳久良伎社を興し、川柳誌『五月鯉』を創刊しました。久良岐が問題視したのは、当時の川柳が言葉遊びや類型的な笑いに傾き、本来持っていた文学性を失いつつあったことでした。久良岐は古川柳、とりわけ初期『誹風柳多留』の精神を研究しながら、川柳を新しい時代の文学として再生しようとします。その根底にあったのは、川柳を単なる笑いや駄洒落ではなく、人間の暮らしと時代を十七音に刻む「風俗詩」として捉える考え方でした。
■ 久良岐が目指した川柳
人間は、その時代の中で暮らしています。仕事、家族、男女、町の風景、政治、世相。そうした日常の一瞬を切り取り、その奥にある人間の心まで描くことができる。久良岐は、そこに川柳という文芸の可能性を見ました。これは現在の私たちが詠んでいる川柳にも通じる考え方ではないでしょうか。時代は変わっても、人間を見つめ、暮らしを詠み、その時代の空気を十七音に残す。久良岐が明治の時代に求めた川柳の姿は、現代川柳にも脈々と受け継がれています。
■ 阪井久良岐の代表句三句
① 広重を又なつかしむ木場の雪
雪の木場を眺めながら、歌川広重が描いた江戸の風景を懐かしんでいるのでしょう。「又なつかしむ」が印象的です。目の前には明治の東京がある。しかし、その風景の向こう側には江戸が見えている。江戸文化を深く愛し、古川柳を研究した久良岐らしい一句です。『日本大百科全書(ニッポニカ)』でも久良岐の代表句として紹介されています。
② 市川へ名殘の桃の春が來る
久良岐自身の文章「眞間名所」の「菅野の桃」の項に「拙句」として記されている一句です。同文章は『川柳久良伎全集』第五巻にも収録されています。久良岐が晩年を過ごした千葉県市川。その土地には、かつて桃の美しい風景が広がっていました。「名殘の桃」という言葉が美しい。消えてゆく風景を惜しみながら、それでも春は巡ってくる。風景を詠みながら、その背後に流れる「時間」まで感じさせる一句です。
③ 市川は死所志は江戸にあり
久良岐の辞世として伝えられている一句です。晩年を過ごした市川は、自分が生涯を終える場所。しかし、自らの「志」は江戸にある。江戸川柳を研究し、その精神を近代へ蘇らせようとした久良岐の人生を考えると、実に象徴的な一句です。「死所」と「志」。わずかな言葉の中に、自らの生涯と川柳への思いを刻んでいます。
■ 井上剣花坊とともに進めた川柳革新
近代川柳を語るとき、久良岐と並んで忘れてはならないのが井上剣花坊です。二人の川柳観は必ずしも同じではありませんでした。久良岐は川柳を「風俗詩」として捉え、剣花坊は川柳本来の滑稽性や人間味を重視しました。時には論争も交わしました。しかし、この二人がそれぞれの立場から旧来の川柳に新しい風を吹き込んだことによって、明治の川柳界は大きく動き始めます。異なる考え方が競い合うことによって、新しい文学が生まれる。久良岐と剣花坊の存在は、その好例だったと言えるでしょう。
■ 『五月鯉』と川柳運動
久良岐は自ら句を詠むだけではありませんでした。川柳結社を組織し、『五月鯉』などの川柳誌を発行し、古川柳を研究し、川柳について論じ、後進を育てました。つまり久良岐は、一人の川柳作家であると同時に、研究者であり、編集者であり、川柳革新の運動家でもあったのです。川柳を文学として社会に認めてもらうためには、良い句を作るだけでは足りない。発表する場所をつくり、理論を築き、人を育てる必要がある。久良岐はそれを実践した人物でした。
■ 久良岐から川柳六大家へ
阪井久良岐や井上剣花坊らによる明治期の川柳革新の後、川柳界には新しい才能が次々と登場します。川上三太郎、岸本水府、麻生路郎、村田周魚、前田雀郎、椙元紋太。後の川柳六大家です。もちろん六大家は、それぞれ異なる道を歩みました。しかし川柳を単なる言葉遊びに終わらせず、人間と社会を詠む文芸として発展させていく。そのための土壌を耕した先駆者の一人が阪井久良岐だったのです。
久良岐・剣花坊から六大家へ。そして現代川柳へ。
こうして眺めると、一本の大きな川柳史の流れが見えてきます。
■ 阪井久良岐が川柳界に残したもの
久良岐の功績をまとめると、次の五点が挙げられます。
一、川柳を文学として再評価したこと。
二、古川柳を研究し、その精神を近代に蘇らせようとしたこと。
三、川柳を人間と時代を描く「風俗詩」として捉えたこと。
四、新聞や川柳誌を通じ、新しい川柳を社会へ広めたこと。
五、後進を育て、近代川柳から現代川柳へ続く基盤を築いたこと。
■ まとめ
川柳六大家を調べた後で阪井久良岐を振り返ってみると、近代川柳の流れがさらによく見えてきます。六大家が大きな樹木だとすれば、その樹木が育つ土を耕した先人の一人が久良岐だったのではないでしょうか。特に私は、広重を又なつかしむ木場の雪という一句に惹かれます。雪景色の向こうに江戸を見る。現在を詠みながら、そこに過去の時間まで重ねる。単なる説明ではなく、一枚の絵のように時代を切り取っています。川柳は笑いだけではない。風刺だけでもない。人間を詠み、暮らしを詠み、そして時代を残すことができる。阪井久良岐が明治の時代に切り拓いたその道は、川柳六大家へ、そして現在川柳を詠む私たちへと続いているのです。
柳山
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