朝明第13号(栃木県文芸家協会/2025年1月1日発行)特集[かけがえのない言葉]
「有り難くもない有り難う」 三上 博史
読売新聞に「時代の証言者」というコラムの連載がある。各界著名人の回顧録なのだが、昨年の8月から9月にかけては、探検家で医師の関野吉晴氏の「グレートジャーニー」が連載された。
「グレートジャーニー」とは、6万年前に現在の人類が東アフリカに誕生し、世界中に拡散して行った人類の旅路のことをさす。関野さんは1993年から2002年にかけて人類の旅路の逆のルートを辿り、南米からタンザニアまで、自分の腕力、脚力だけで「グレートジャーニー」を行った。
コラムでは興味深い体験がいくつも紹介されたが、旅路の最後に近づいた頃、エチオピアのコエグ族について語ったエピソードに私は驚嘆した。要約して紹介する。
[助け合うのが当たり前のコエグ族には、日本語の「ありがとう」に相当する感謝の言葉がない。医者としてたくさんの患者を治療したが、誰も感謝してくれなかった。
世界にはいろいろな言語があるが、日本語の「ありがとう」に相当する言葉が存在しない言語があるとは、私には信じられなかった。]
「ありがとう」の元来の意味は「有ることが難しい」ということである。有ることが難しくなく当然であれば、「あたりまえ」ということになり、これが対義語になる。
なぜ人は人に対して感謝するのか。感謝するようなことが有り難いと思うからである。反対に、あたりまえのことなら感謝の気持ちは生まれない。感謝の意を表しない。
娘がまだ小学生の頃「我が子から聞いた言葉で嬉しく思ったものは何か」を親に訊いてくるようにという宿題がクラスで出された。それを聞いて私は思い浮かぶものがなくて少し戸惑ったが、一応いろいろ考えてみて「ありがとう」だと閃き、それを答えにした。翌日帰った娘に「みんな何と答えていたか?」と尋ねると、ほとんどの生徒(の親)が「ありがとう」だったらしい。
子供の頃、人に対する感謝の気持ちを忘れるな、などとよく説教された。でもその実態は、有り難く思う感謝の陰には有り難く思わない経験が多々あるから「有り難い」が明確に概念化される訳である。すべてがあたりまえばかりの社会なら有り難く思う余地はない。コエグ族の社会はあたりまえだけで成り立っているのかもしれない。それは現代人から見れば、ユートピアみたいなものなのだろうか。
現実の文明社会は、価値観の違い、コミュニケーションにおける誤解や齟齬、勝ち負けの競争原理と闘いによって成り立っている。だから有り難いと思う場面が起きる訳である。それが消えた「あたりまえ社会」(私の造語)になってしまえば、「有り難う」と声を発する機会もなくなるはずだ。掛け替えのないのように思われる感謝の言葉の裏にはこんな真実が隠されている。人間なんて、社会なんて…。
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