先日、何気なくWikipediaをクリックして眺めていたら「日の丸弁当」のページに出くわした。読み始めると、私が思い込んでいたこととは別にいろいろなことが記述されていた。
私の勝手に決めつけていたことは、梅干し一個だけのおかずではご飯はたべられないのではないかということである。しかし丁寧な解説を読むと、戦時中の1939年からは国民精神総動員の一環として、毎月1日が興亜奉公日に定められ、戦場の苦労を偲んで日の丸弁当だけで質素に暮らすことが奨励されたようだ。陸軍省では毎月7日を「日の丸デー」と定め、7銭の日の丸弁当を売って恤兵(じゅっぺい)の費用を捻出した。鉄道の駅弁も、やがて日の丸弁当のみに制限された。そんなことが書かれている。
実際に日の丸弁当が広く国民によって食され、駅弁にもなっていたという歴史的事実は驚きであった。飽食の現代では信じられないことであろう。正直に言って、日の丸弁当は漫画や映画に出てくる、現実的ではないコミカルな代物と私は勘違いしていた訳である。
それから自分の子供の頃の弁当のことを思い出した。小学校は給食だったが、土曜日の午後に何かの課外活動があると弁当を持って行った。中学校は給食がなく毎日弁当だった。
小学校の時の思い出。高学年になって私は図書委員になった。図書室で図書整理の作業が土曜の午後にあり、弁当を持参することになった。作業前のお昼時、私が開けた弁当の中は目玉焼きが一つだけのおかずだった。目玉焼きと言っても、両面を焼いて黄身を固くしたもので、それに塩を振りかけただけのものである。他人に見せられるものではないので、見られないように食べた記憶がある。ふと隣りの弁当を覗くと、スライスした紅生姜が2、3枚載っていただけの弁当だった。私には紅生姜の赤が眩しく見えた。一枚ぐらいもらって食べたい気持ちになった。でも今から考えると、おかずが紅生姜だけというのも目玉焼き一つと同じくらい侘しいものだったろう。ただ、どうしてもよそ様の弁当は羨ましく見えたのである。
中学校の時の思い出。毎日弁当だったので、おかずも母親がそれなりに何種類かを考えて作ってくれるようになった。それでも、同じような料理が続く時が多かった。ある日のこと、お昼になっていつものようにみんなが一斉に弁当箱の蓋を開ける。隣りに座っている友達が蓋を開けた途端、いきなりため息をついた。何だと思ってそっちを見やると、その友達の弁当のおかずはコロッケが1枚載っているだけだった。どうもコロッケ1枚のおかずの弁当が数日続いているらしい。それで今日もコロッケかと嘆いた訳である。しかし私からすれば、そのコロッケ1枚が羨ましかった。我が家では、惣菜のコロッケは、大袈裟に言えばある意味で贅沢な料理だった。当時の我が家はなるべく惣菜も買わず自分で料理するような暮らし向きだったのである。
以上、昭和40年代半ば頃の記憶である。
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おはようございます。
弁当についてはいい思い出は私もありません。
一番つらい思い出は、おかずと言えば塩さばを焼いたのが一切れだけ。その汁がこぼれてかばんが匂い出すのでまた今日も塩サバか~と弁当開けるのがつらかった思い出があります。たまには弁当忘れた振りしてパンを買ったこともあります。
今の子らは色とりどり、何種類ものおかずが入って。昔こんな弁当持っていければ自慢だっただろうなと思っています。別に家は貧乏ではなかったんですが母が面倒くさがりだったんでしょうね。
かけの大さん、お久し振りです。コメントをいただきありがとうございます。
連日の塩サバも大変ですが、私の場合はイワシの煮付けが多かった記憶があります。弁当は立ててカバンに入れるので、その汁がこぼれて包装した新聞紙に必ず滲みていました。懐かしいと言えば懐かしいような思い出です。