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 三上奈緒子。大学時代の哲学科の同級生である。その中に、三上という同姓がいることは、多感な青春時代の驚きであった。小学校から高校まで、三上という名字の同級生には出会っていない。それが、東京の大学に入学して初めて同姓に出会ったのである。
 入学後一回目のコンパの時、三上奈緒子のところに近づいて、早速名字のことを話したら、
「私の出身地、青森県の弘前では三上という姓はベスト5に入るくらい多いの。鈴木や佐藤みたいなものよ」 と、簡単に躱されてしまった思い出がある。
 レポートを貸した英米哲学研究の記憶はほとんどない。それよりも、短い手紙の中で三回も『三上君』という呼び名が出てきている方にびっくりさせられた。鉄工会社の社長というのが、今の肩書である。大学を中退してから、自分のことを君づけされたことがあっただろうか。
 こんな手紙をもらった秋に、親父が急死した。気のいい親父は過労が原因で死んだのである。親父が起こした鉄工所をこの僕が継ぐことになろうとは、この手紙の頃には夢想だにしなかったことだ。四十九日が過ぎて、おふくろが上京し、中退をしてでも家業を継いでくれるよう懇願した記憶も甦ってくる。
 親父が過労死なら、こっちも過労になるくらい頑張った。独学で会社の経営論を学び、親父の有限会社を従業員十数名の株式会社に成長させた自分に対して、三上君などと呼ばれた記憶はない。
 二十歳そこそこでなんとか社長業をやってこられたのも、死んだ親父への済まなさが根底にあったからである。中学の頃から、真面目過ぎる親父に対する反発が芽生え、何につけ親父の言動を嫌っていた。
 ところが、親父が汗を流しながら経営していた会社に入り、その苦労が分かり始めると、それまでの反発が噓のようになくなり、いつの間にか、親父と同じような真面目さが身に付いていたのである。
 妻の直子も、バブルに踊らされず手堅くやってきた経営だけは褒めてくれると思う。
 同姓の三上奈緒子の方はどうなったんだろうか? 二歳ほど年上で、頑張り屋だったことを覚えている。最初地元の国立大学に入学したが、それに満足せず、どうしても東京の大学で勉強したいと中退して予備校に通い、念願のW大学に入学し直したのである。こちらも年下という意識があったが、お姉さん的なしっかりしたところも感じられた。
 大卒女子の就職は、今以上に厳しかった。たしか彼女は、小さな出版社に入社が決まり、その報告を受けて、二人でパスタ料理を食べに行ったことがある。長く勤めるのは難しいんじゃないか、そう心配したが、やってみて駄目だったら、弘前に帰ってリンゴ園を継ぐとか、そんな話をしてくれたことを思い出す。

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