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 国会議員の選挙などで候補者の落選が決まると「私の不徳の致すところであります」などと弁明して頭を下げるのは、テレビなどでよく見受ける光景である。何を持って不徳とするのか、考えると極めて怪しい言い回しである。不徳とは、徳が足りないことをさすが、選挙で負けたのは、徳ではなく力が足りなかったからだけと言った方が適切であろう。要は、選挙という戦いにおいて力不足で負けた。事実はこれ以上、これ以下でもない。不徳の致すところは言葉だけが響く虚しい世界である。
 政治家が、誠に遺憾であると言うのも変な常套句である。他人事だから遺憾に思うのであって、我が事であるとしっかり自覚していれば、こんな言葉は絶対に使わない。自分にはあまり非はないが、それでも弁解しなければならないために、取り敢えず発するほとんど無意味な、情報価値のあまりない紋切り型のフレーズだろう。表情だけは全く以て許しがたいことをしてしまったというように見せるが、これは見事な演技である。
 こういう場面を何度も見るにつけ、語彙の意図的な乏しさに基づく言語表現の限界を感じる。こんな類いの言葉を発してもらっても、聞くだけ野暮な時間を共有させられると思うといらいらしてくる。
 さらに、慇懃無礼な言い回しも普及してすっかり定着している。「これから会議を開催させていただきます」とか「忘年会を始めたいと思います」とかは、残念ながら耳に馴染んでしまった。物事を丁寧に持って行こうと意図して言葉だけが馬鹿っ丁寧になっていることに今では違和感を感じる者はあまりいない。「仰られる」「ご覧になられる」などの二重敬語表現に至っては、これがまずい言い回しであることに気がつく人は少数派になってしまったのではないか。
 言葉だけが丁寧になって中身が伴わない意見表明や言語表現は、その反動も必ず出てくる。SNSなどで薄汚ない言い方もしっかり出回っていくのである。誰でもいささか毒っぽい、あるいは下卑た表現も嫌いではないのである。世の中は綺麗事だけの移ろいで時が流れている訳ではない。だから綺麗な表現ばかりだと飽きてきてしまう。それだけだと受け取る側として感情のバランスがとれない。事前に与えられた台本どおりの言語発信だけのやりとりでは世の中はあまりにも空虚なものになってくる。予期しない詩的な表現があるから、インタビューや対談などのおもしろさは成り立っているのだ。
 ポリコレ(ポリティカル・コレクトネス)という言葉がある。これが浸透していくのは結構なことだが、テレビなどでコメンテーターが至極真っ当であるがさして中身のない意見を発言をされたら堪ったものではない。そんな話しを耳に入れたその時間がもったいなかったと思ってしまう。少しぐらい自分なりのホンネ(少しバイアスがかかっていてもいい)があっても構わないのではないか。誰でも少しぐらいはそういったものを期待して耳を傾けているのである。
 何につけ、まず無難な言葉を発しなければならない時代になってきた。良心的に言語表現を操ろうとすると、その限界が見えてくる。是非はともかく、誰でも正直な感想、素直な気持ちを聞きたいのである。日本国憲法が保障する「言論の自由」は、残念ながらこういう脆さと危うさを孕んでいると言えるだろうか。独裁国家を単純に嗤えない。

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