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 例えば昭和の頃、ある若い女性が友達の結婚式に招かれ、喜びに満ちた顔の新郎新婦を披露宴で眺めながら「私も幸せになりたい」と呟く。そんな映画の場面があったとしても、それは一つも不自然ではなかった。今の令和の世の中では、何につけ多様な価値観が叫ばれ、男女の関係について、結婚イコール幸せ、幸せイコール結婚という図式は成り立たなくなってきた。
 さて、幸せになるということは何か具体的な変化がないとそうはならない。言い換えれば幸せを追い求めるということは、抽象的で観念的なものではないと言える。
 人によって幸福の具体性は異なる。宝くじに当たって億万長者になる。生きがいとなる仕事を見つけ頑張って成功する。物凄い豪邸に住む。理想の配偶者と出遭う。社会のために役立つことを見つける。こういった具体的事例は挙げていけばキリがない。しかし、繰り返すがこういう具体性なしの幸福感というのはあり得ない。気持ちの持ち様で幸せになることは出来ないのである。
 いやある程度の年齢となって自分の人生を回顧し、自分は幸せだったと総括してしみじみとすることもあるだろう。そう言われるかもしれない。でも、その人生のどこの何が幸せだったかと問われれば、それに対して具体的な出来事を必ず答えられるはずだ。別に理由もない幸福感に浸り、それ自体が幸せの根拠なのだと答えるような人はやはりいないだろう。
 冒頭の話しに戻って、昭和が終わる頃までは適齢期(これも古い言葉になってきた)の女性が幸せになりたいと言ったら、それは結婚のことだと理解してほぼ間違いなかった。そういう価値観が社会の中である程度共有されていた。勿論今は違う。人はそれぞれの多様な考え方を持って生きている。しかし幸福追求の願望が個々人の中で一様に持続されていることも確かである。もちろん、これがなくなったら人生への絶望しかないのは言わずもがなのことではあるが。
 幸福論には正しい答え、考え方などはない。幸福追求の願望だけが最大公約数的な前提としてあることを改めて思い知る。

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