英語のIdeaを英和辞書で調べると、哲学的には観念・理念などと解釈され、一般的な用語としては、概念、意見・見解、計画・意図などの意味が出てくる。今度は、哲学用語として代表的な観念を国語辞書で調べてみると、一般的な意味の他に、ちょっと毛色の違った、諦め、覚悟という二番目の意味も載っている。
ネットで観念のそもそもの語源を調べると、仏教用語の「観想の念仏」の略と記されてあった。諦めるという意味があるのは、真理を会得し悟りを得るという「覚悟」の意味から転じたもの、とも書かれてあった。何かを観念して諦める、覚悟するという言い方は、仏教思想に由来していたことが分かる。
哲学的なIdeaイコール哲学的な観念という解釈にこだわると、観念に諦め・覚悟の意味合いが含まれていることは奇異に感じられるかもしれない。英語圏の人から見れば、Ideaを和訳した観念にそういう意味合いが含まれていることは驚きのことなのではないか。Ideaと諦め・覚悟は天と地ほどの意味の乖離があると指摘されることだろう。
英語のReasonをやはり英和辞書で調べると、哲学的・論理学的には理性・論拠などと解釈されている。一般的な用語としては、理由・動機・言い訳・弁解、判断力・推察力、良識・分別などの意味が出てくる。今度は理性を国語辞書で調べると、感情に動かされないで論理的に考えをまとめたり物事を判断する頭の働きと記されている。この言葉にはそもそも小難しい、哲学的な理屈っぽさが含まれていて、Reasonが一般的な英文の中で使われている場合の言い訳・弁解のような俗っぽい意味合いはない。
以上、いろいろ書いてきたが、日本語の観念には英語のIdeaにはない諦め・覚悟という仏教的な独特の意味合いがあること、英語のReasonには逆に日本語の理性とは違って、言い訳のような通俗的な使われ方があること、そういった側面がそれぞれに浮き出てくる。
日本語でも英語でも、ある単語を翻訳すればそれにすっぽり当てはまる単語が見つかるようでいて、実はそれ以外のとんでもない意味合いも含まれているというケースは数限りなく存在する。英単語の「○○」イコール日本語の「□□」みたいな図式的に単純化した翻訳の対応関係などというものはほとんどの言語には存在しないと言った方が適切であろうか。そもそも言語体系とはそういうものだと言われてしまえば当たり前のことではあるが。
学生時代に一応西洋哲学を学んだが、齢を重ねていって改めて哲学的な観念や理性という重要な概念と向き合ってみると、日本語による思考形態の中でどのように位置づけられるのか、何かその用語的必然性みたいなものが少なくとも自分には怪しく思えてきた。それは40歳を過ぎた頃だったか。仏教などの東洋思想の方が、自分の思考方法にはしっくり馴染むことに今更ながら気づいたのである。
何故こんなことを持ち出してきたかというと、コロナの流行(感染拡大)、ロシアのウクライナ侵攻などのような世界史に残るような大問題に直面してそれに対処する各国のやり方、思考方法について、やはり日本人の精神風土は西洋人のそれと明らかに違うと、折にふれ実感するからである。アジアやアフリカの諸国などには、政治経済や文化についていまだグローバルとは縁のない(資本主義に毒されていないとも言えるが)考え方を持っている国家や民族が存在しているが、そういった人たちとの親近感を無性に感じたりすることがある。地球は一つという考え方には、実に安直な側面がいつもつきまとっている。
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ムッズッ!!!でも文章のまとめ方はうまい!! いつもながら感心しています。
神山さん、ありがとうございます。
少しでも褒めていただくと、素直に嬉しい。
大丈夫、褒めてもらっても図に乗りませんから。