今年の正月は、大阪にいる娘夫婦が3歳になる孫娘を連れて帰省してくれた。コロナ下であったので、帰省ラッシュのピークになるべく重ならないように、年末早めに来て正月2日には早々に帰阪した。そこでのエピソードから得たものを話すことにする。
元旦に婿さんが生まれ育った和歌山風のお雑煮を作ることになった。ようやく出来上がり、何かお手伝いしたがっていた孫が、台所から茶の間へお盆に載せたお椀の雑煮を一つ運ぼうとした。しかし案の定というか、やっぱりというか、お盆をうまく水平に保てなくて炬燵のところでお椀から中身をこぼして、それが自分の服にかかってしまった。当然孫は泣き出す。ママである娘は、叱らずに宥めて着替えさせながら「(もともと運ぶのは無理があったのだから)仕方ないんだよ、悪くないんだよ」と諭していた。私がそれを眺めながら100%冗談で「運ばせたパパが悪いのかな」と軽く呟いたら、娘がきっぱり「誰も悪くない」と言い切った。
あまりの毅然とした娘の対応に驚いて、これは育児書で学んだことなのかなぁと考えた。その後この「誰も悪くない」というフレーズが耳に残り、我が娘ながら実にうまいことを言うものだとしみじみ感心したのである。
誰も悪くない。この言葉の裏には「人間というものは、誰か(他者・他国)を悪く考え、そしてその結果としてまた誰か(自分・自国)が善いと思いたい」という思考パターンに陥りやすいことを暗示しているのではないか。
国内政治はもとより国際情勢とか外交問題など、この思考パターンで物事の善悪を決めつけていないか。社会的な事件や大事故・大惨事でもすぐに誰かを犯人・加害者や責任者と思い込んで悪者扱いしていないか。
何故そう決めつけたがるのか。それは、日々生活する自分の精神状態のバランスをとる上でその方が都合いい、楽なのではないか。逆に悪者が見つからないと精神的に不安定になる。息苦しくなる。推理小説やドラマの結末がすべて迷宮入りのものだったら面白くも何ともなくなってしまう。やはり勧善懲悪が気持ちいい。物語の展開から得られる満足感やカタルシスがもらえないなら、時間をかけて読んだり視聴したりしたものが価値のある作品とは評価したくない。これが人間心理というものだろう。
国と国との間の紛争やトラブルだって、この思考パターンに無意識のうちに当てはめて、第三者の立場をとらずどっちが悪者かを決めつけてしまう。事の真相を深く追究すれば、実際には複雑な要素が絡み合っていて簡単に白黒をつけることは難しいと分かり、自分の無知にハッと気がつくこともある。
メディアの客観的な報道というのも随分怪しいものが潜んでいる場合がある。バイアスを完全になくして報道するというのは所詮無理なのかもしれない。頼りになるのは他人の知識ではなく自分自身で深く掘り下げて考え抜いき、そして苦労した得られた自分なりの結論だろう。
そのために必要なことは何か。事実を事実として、現象を現象としてそのまま、ありのまま受け入れようとする。そう受け取るように努力する。そして、可能な限り更に広く深く知ろうとする姿勢を持ち続ける。人の追及より事の追究が大事なのかもしれない。
不偏不党などというが、所詮そんなことは見果てぬ夢なのかもしれない。でも出来るだけ物事を知って考え抜く姿勢は心掛けたい。その前提として「誰も悪くない」というスタンスは大切だと考える。
Loading...
















































